舌先から散弾銃

ただの日記です

膿出し

 自我と名前、結婚と家、信仰と納得、「社会彫刻」、おじさんおばさんの仕組み、みたいなことを書きます。理由は10年後くらいの私のために今私が見えていること、感じていることを絶対に残しておきたいからです。そして今から書くことは全てジョークで、読んでも面白くありません。

 幼稚園に入る前、小学生の男の子たちと公園でドッジボールをして遊んでた。夕焼け小焼けのチャイムが鳴り、親に連れられて帰る頃になると「おーい、あすかちゃん帰るって〜!」と別れの挨拶を毎回みんなでしてくれた。一方で、同級生が乗っている子供用の足蹴り車を押し倒して強奪し、公園を爆走してた。お母さんはこの頃が一番しんどかったらしい(ごめん)。

 小学生のころほとんどの学年で学級委員長だった。成績も悪くなかったと思うし、運動もできた。先生からは「何の心配もいらない子です」と言われていた。お母さんは言われるたび、傷ついていたらしい(なぜ傷つくかわかりますか、傷つくんですよ)。
 小6の修学旅行で半日消えたことがある。理由はみんなが行きたいところと私が行きたいところが違ったから(三十三間堂がどうしてもみたかった)。自力でホテルに帰ってきたらめちゃくちゃ怒られた。怒られた意味がわからず、(今はわかる)何かに対する何かがプッツリと切れてしまった。 

 中学2年生の頃、校庭の裏にある外のトイレで初めて煙草を吸った。散歩をしてたらまるっと1箱吸ってない煙草を拾ったので、「あーこれ吸えってことだな」とか考えながら吸ったの覚えてる。家族に隠れて2週間に1本くらい、その拾った煙草を大事に大事に吸った。キャビンだった。1箱まるっと吸い終わってからは2箱目を買うこともなかった。次に吸うのは大学1年生で、吸った理由は2つ。先輩に連れられて観に行ったライブでカッコ良かったバンドマンが煙草を吸ってたから。高校生の頃よくしてくれた先生がヘビースモーカーで一緒に喫煙所で煙草を吸いたかったら。煙草にまつわるエピソードは例外なく、全員ダサいと思う。

 高校の頃よくしてくれた先生とは、現役生の頃からは「なんか珈琲とかが飲みたい気分なんだけどなんかいい喫茶店知らない?」「●●にディ●●ラって言う紅茶屋があります」「紅茶を飲みたい気分になってきたな〜19時くらいにはさらに飲みたい気分になってそうだな〜」といった茶番や、「映画***は●●で20時くらいからの回をみようかな〜」というどでかい独り言を学校でして、一度家に帰り、制服から着替え、化粧をしヒールを履いて、”偶然!”その先生と会って夜遅くまで話し込んだりした。その男は付き合ってる女性が、診断書付きのメンヘラらしく、私とはもう会ってくれない。連絡先も知らない。Twitterのアカウントを発見し、たまにこっそり覗いてる。

 大学1〜3年生くらいまで、出会い系にハマった。というか溺れた。約束してた男と、新宿のアルタ前で待ち合わせ、「そろそろ着きます!」と連絡が来てすぐ「すみません!急用ができたので帰ります!」とメッセージが来て、新宿駅小田急線で2時間くらい泣いた。その時、「こういう時、連絡したいと思える友達が私にはいない」ということに気付き、プラス2時間、ホームで泣き、終電を逃した。孤独だった。眼鏡を辞めて、髪を金髪からピンクや紫にし始めたのはこの頃。家に帰らず、酒男煙草勉強勉強酒勉強煙草男男男男みたいな日々になった。

 下北沢の水タバコ屋で会った、長崎で革製品の社長をやってるらしいヤーさんみたいな人と、合法じゃない方の煙草を吸った。楽しい気持ちで食べた焼肉はこの世のものとは思えないほどうまく、「おいしく感じるものナンバー1だぞ!」と言われたオレンジジュースは本当にうまかった。この日、人生のtodoリストを全て体験し終え、次の日友達が赤飯とケーキをプレゼントしてくれた。ラーメン屋の隣の席に座ったサラリーマンとセックスしたこともあった。新宿でラブホを求めて2時間くらい歩き回り(馬場まで行った)、最終的にレディースカラオケ館に行き着いたこともあった(アホすぎ)。クラブに行ってエロしか考えてなさそうな男と話すのが好きだった。異性からの視線が自分の価値だと思っていた。六本木のマハラジャで遊んで、帝国ホテルの朝食を食べてから学校に行った日も、グランドハイアットから会社に行った日もあった。やっくんとは出会い系で会った。両親はその事実を知らない。やっくんは出会い系であったのに終電で返す謎の男だった。

 ずっと自我を優先させてきたと思う。わがままだとも言う。我慢ができない人とも言う。私の言動で傷つき、犠牲になった人たちもいると思う、ごめんなさい。無茶苦茶やりながら主張をし続ける私に向かって、正々堂々喧嘩してくれた母・千秋には感謝。おかげさまでやりたいことは全部自分で決めて、やってきた。全部を自分で選んでないと、最終的な逃げ道として人は誰かのせいにすると思う。

 自我がある人間はまじでビビるほどいない。出会い系で会うはずだった男が、アルタ前で待っている私を遠目から見て「パスで」となった日、「話したい人がいない」と絶望したのは同じような理由だったと思う。寄り添ってほしいわけでも、慰めてほしいわけでもない。1人の人格がある者と話したかった。「うちの旦那も〜だったよ」「うちの子も〜だよ」「私の友達も〜だったよ」になっちゃうのはなぜ。わたしとの関係者は、あなた、他者は事例、お前の話を聞かせてくれ。と、思う。
 最近、きゃりーが炎上しているのを見て、「自我への拒否反応」のことを考えた。自我がある奴を、みんな怖がってるのかもしれない。みんなが気づかないようにしていること(政治的な意味合いではなくもっと抽象的な意味です)に、気づいている人たちが怖い。気づいてしまうと傷ついてしまうから、気付きたくないんだろうと思う。「気づかない方が傷つかないのに、気づかずにはいられない人々」(キズゲシュ崩!!)のことを私は「1人の人格がある人」だと認識するし、同時に「絶望している人」で「優しい人」だと思う。

 

  やっくんが島に行く時、事実婚をした。夫家に報告した時、夫家女に「ずっと事実婚ではいないよね?」と聞かれた。婚姻届を出す時、夫家男は「特に何の問題もないだろうから、本籍地を熊本(夫家の実家、今は誰も住んでない)にしてくれないか」と相談された。結婚した後食事をし、夫家男に「もう家族だから遠慮しないで」と言われた。結婚式の日取りを報告した時、夫家女は「海外挙式なので土日挟んで日程とってくれないと、社会人の我々は会社そんな休めない」と言われ、日付を少しずらした。正月に夫家に呼ばれたが2人で旅行の用事があり別日を提案したら「じゃあもういいです」と言われた。私はここで、夫家女のラインをミュートした。コロナで世の中が騒ぎになった頃、夫家女に「こう言う時、お元気ですか?とか連絡しない?ラインの返事もないし。友達とかと連絡しないの」と怒られた。
 事実婚をした時、私家父は「報告ありがとう、あんたたちはもう大人何だから自分たちで決めて」と言った。婚姻届を出す時、私家母は「新しい門出おめでと〜!幸せにね〜!」と言われた。結婚した後、特別な食事はしなかった。数ヶ月後、ホルモン焼きに行き私家父は「やっくん、指輪、したくなかったらしなくていいんだからね、あんたの自由よ」と言った。結婚式の日取りを報告した時、私家母は「楽しみ〜!」と言った。正月に呼ばれたが2人で旅行の用事があり別日を提案したら「了解!」と言われた。コロナで世の中が騒ぎになったころ、何気ないラインを母にしたら、祖母が心臓肥大でぶっ倒れ数週間前に入院、おばが死んだと言うことをさらっと聞かされた。
 
 さて。あなたはどちらの反応が「普通」だと思いますか。こうやって比較してみると、寂しくなるくらい私を徹底的に「1人の人格を持つ者」として扱う家に育ったので、夫家の発想が訳わからんのも、まあシャーないな。となる。

 結婚してからは特に、夫家の「家族なのだから普通はこうする」「このくらいは我慢できなければ社会で通用しない、ありえない」という感覚と、それとは全く別の環境で育ってきたわたしの感覚とのズレが出てきた。
 
 そんなゴタゴタを経て、今年の年始、両家でご飯を食べに行った。あの日、わたしたちが来るやいなやの、やっくんの外見からかい。ターゲットを見つけ貶めて笑う、身内でしか通用しないいつものコミュニケーションが目の前で繰り広げられる様子で場の雰囲気の全てを察したやっくんは、今まであれこれと悩んでいたことが色々とバカらしくなり、あとはただ、この場が早く終わればいいのにと思っていたらしく、わたしもほとんど同感だった。
 そして3月末、サイゼの安いワインでベロベロになってる私たちに1本の電話が入る。夫家女から「あんたからもラインの返信もないし、あすかちゃんからもない。縁を切ると言うことでいいか」と。

 やっくんは、家族に対しての怒りの解消の方法として「黙ることで相手を不安にさせる」という方法をよく取る。不安になっているのを承知で、怒りに任せてもっと苦しめと、よそよそしい態度を続け、十分に苦しませたら、ひょっこり顔を出して、あれはまずかったね、なんて言って決定的な対立を避けつつ、自分の溜飲を下げようとすらする。だから、伝えてもいない不満に対し電話がかかってきた日、反省すら期待していたのに、電話口で「こんなことなら結婚は祝いたくない、関係を断つということでいいいのか」と言われパニックと逆上に任せ、売り言葉に買い言葉でずっと根にもっていた不満も、ぶちまけた。
 そうして我々は、”家族”と絶縁状態になった、なうタイム。

 

 わたしが今思うことその1:不満があるなら、ちゃんと自分の言葉にして伝えるべき。今まで自我を出していない人間が突然、自我をだすと人はびっくりしてしまう。それは、「今まであなたが素晴らしい神様だと思ってたのに、助けてくれないんですね、信じてたのに!」とかに近いと思う。そして、神様を信じる強さを持てないのも(持たなきゃいけないのも)、「気づくと辛いことに気づいて傷ついてしまうから(けど気づかなければが、「強さを僕に」です)」なんじゃないかな。
 ボディーブローのように「こいつ、自我があるぞ!」と言う態度は効いてくる。無茶苦茶やって、あれこれ両親に言われるだろうが、はやめに親にも「諦めて」もらえば、25歳をすぎるころには、何もかもが大丈夫なる。親がわからずやなら、こちらが早めに諦める。諦めて、主張し続ける。
 自我を出した時、相手がびっくりしかしない未開拓の土壌の上では、「主張」はできず「若い奴らがなんかギャーギャー言ってる」になってしまう。腹割って話したいと思った時、「親ならいつか分かり合えるだろう」なんて甘い考えは今すぐ捨てるべき。

「何遍言ったって通じやしない、ってこたぁ置いといて僕ぁ言う」/魂の本 

って中村一義も言ってるし。孤独になろ〜ぜ〜!
 おそらく夫家の中ではわたしは極悪人。こう言う時ばかり、”所詮他人”みたいなことを考え、息子との不仲を全て私のせいにするのは簡単。これが、「自分が選んでないと、人間、最後の逃げ道として人のせいにする」です。

 わたしが今思うことその2:「戦わずして勝つ」と「受け取った上で受け流す」と言う技を覚えた。主張はすべき時にし、振る舞いでは常に主張を続け、「こいつはダメだ」と諦めたら早めに拳はしまう。そうやって強くなっていけばいい。今は自分のの家をよくすることだけを考えている。自分の家を良くすることは、辛いことがいっぱいあって優しくならざるを得ないタイプの人々が悲しくて寂しい思いをしなくなることで、それは世の中にとってちょっといいことだよな。と思う。
 20世紀後半に活躍した芸術家 ヨーゼフ・ボイスは「社会彫刻」と言う概念を提唱していて、

「あらゆる人々は、自分の美的感性と創造性をもって世界形成に寄与するアーティストであるべき」

と言っているんだけど。芸術家は自ら考え、自ら決定し。自ら行動する人、と定義づけている。私も芸術家の端くれとして、これからも孤独に社会彫刻していくゾ。

 わたしが今思うことその3:夫家女に捨て台詞で「何でそんなに個人主義なのに、結婚したの、事実婚のままでいればよかったじゃない」と言われたんですが。ここには拳を書いておきます。島にいた時、もし船が難破したり、津波が来たり、怪我をした時、「家族」ではないから病室に入れてもらうことも場合によってはままならないな、と思った。それがやだったので結婚と言う選択肢を取った。
 事実婚してたとは言え、島から出る理由は「理由があって島にはこれない事実婚している妻のもとへ帰る」と言う見え方ではなく「彼女のところヘ遊びに行く」と言う見え方。
 先日、ラバ〜のいる友人が、「婚姻届1枚出すだけで得られるありとあらゆる権利を、今の世の中のルールでは得られない私たち、法的にひとつづつクリアしていくことを”パートナーになる”と呼んでいて、その項目は20個くらいある」と聞いた。ロマンスもへったくれもねえな、と笑ったけど、社会の目から見た「家族」と言う言葉の持つ強力なおまじないを実感させられる話だった。
 結婚はチーム結成記者会見。もしくはお互いのカウンセラー契約。個と個の約束。

 わたしが今思うことその4:昭和生まれの30〜40代くらいの人たちは、マジで今が頑張り期だと思う。世の中には、
A「超昔頑張ってきた人たち」
B「『超昔を頑張ってきた人』を見てきた昭和を頑張ってきたおば&おじさん」
C「『昭和を頑張ってきた人たち』と『平成&令和生まれ』の間に挟まれている人たち」
D「平成&令和生まれ」
の4種類にざっくり分かれる。以下、仮説&蛇足。
 「A,超昔を頑張ってきた人たち」は老人ホームで我々の税金の上、暮らしている。
 Aを見てきた「B,昭和を頑張ってきたおじおば」は、いよいよこれから憧れの諸先輩方と同じレベルに達する!とワクワクしている。自分たちがAの人たちを助けてきたように、これからはCやDの人々に敬われ、助けられると信じて疑ってない。理由は、会社員時代も年功序列社会で「自分が上司である」と言うことを疑う余地がなかったから。Dの「平成&令和生まれ」はほとんど宇宙人で、テレビをみながら「若い奴がギャーギャーそれっぽいこと言ってる。パワハラ発言やセクハラ発言を気にすることもなく現役を終えれてセ〜フ」と思っている人も多い気がする。「気づかないことで傷つかない」を無意識にやってこれた世代。(夫家もここ)
 Bをみてきた「C『昭和を頑張ってきた人たち』と『平成&令和生まれ』の間に挟まれている人たち」は大体今、30〜40歳だと思う。Cが20代くらいの90年代には、Bの背中しか見えてなかったと思う。自分の親世代(B)やトレンディドラマとか見ながら、上司である先輩は絶対的存在。お酌をしなきゃ怒られるし、出世はないし、可愛い女の子やかっこいい男の子と結婚もできないんだ!目上の人たちみたいにいずれなれるように、今のうちから頑張ろう!と思ってた。それが10年代に入って「D,平成生まれの人たち」が人の言葉を話すようになると風向きが変わる。
 「目上でであろうと、何であろうとそもそもが1人の人間。だから気になることがあったら意見も言うし主張もする」と言う完全に新しい価値観のD人種が自分たちの会社や飲み屋に溢れかえるように。Cの人たちは「え?Bの先輩たちは俺らが頑張ったから、何もしなくても自分が目上であると言う自覚が持てたはずなのに、Dの人たちがその肯定作業をしてくれない!」と言う混乱状態に。一部の人間は「自分が目上であると言う自信を持つためにDをダシにする」マウンティングおじさんへ変化。
 Dの「平成&令和生まれ人たち」は、善人Cと結婚するともれなくBが、ちらちら視界に入るようになり、困惑、世紀末状態へ……(私)

 

 8月末に予定していたベトナムでの挙式は延期。「私たちの結婚は祝われないものなんだな」とお皿を洗っている時や洗濯を干している時、通勤でチャリンコをこいでる時とかに考えてしまう、今この気持ちでやってもね〜と言うのも正直なところだったので、ケッカオーライ。結婚式をやったあかつきには、都内で、自我のある大好きな友人たちと乾杯したいな。ウェディング姿でベロベロになって、ギター弾きながら「そばかす」歌うから動画撮って欲しい。