舌先から散弾銃

ただの日記です

夜学バーbrat追悼文

 2017年の6月。当時大学4年生だった私は「この話をしたい・聞いてもらいたい人が1人も思いつかない」という事実に気がついて落ち込んでいた。期待して入学した大学。さぞ面白い人がたくさんいるんだろうと思っていたけど、若干肩透かしをくらい、1年くらいでだいぶ大学には飽きた(その後時間をかけて良い大学だった、と思えている現在。みんなありがとう)。「どうしてこんなに世の中は生きづらいんだ」と怒ったり「私と同じくらい面白い人間はいないのか」と右往左往もした。2017年は私にとって相当ハードな年だった。当時の私は、遠距離恋愛をしていて、結婚か事実婚か別れるかの決断を迫られていた。就職も卒論も控えていた。みんなが徐々に大学に来なくなる中、片道2時間かけて学校に行き、取らなくてはならない単位をてきとーに受けつつ、ずっと知りたいと思っていた他学科の授業を受けたり、他大の授業に紛れ込んだり、真剣に卒論に取り組むために本や映画、音楽を聴いた(ほとんどジャンキーだった)り、私のことをおもれーと言ってくれる大人たちのところに飛び込んだりして、生活が少しでも豊かに、楽しくなるように必死をこいていた。

 ……ごめん、今まで書いたこと、ちょっと全部カッコつけすぎだわ。もっと正直に書かなくては。なんせこれは追悼文だから。あのね、当時の私にはもう一つ悩みがあったの。それはね、もうどーーーしても好きだった人が忘れられなかった。なぜ、忘れられなかったかというと連絡が取れなくなったから。私に無断で、私の記憶と化したのだ、許さん。

↑私のツイート

 随分といろんなことを教わったし、随分と賢くしてもらった。それがぱったりと連絡が途絶えてしまって私は困惑してた。そう。色々言い訳を言っているけど、私は彼のように、私の知的好奇心を刺激してくれるものを求めていた。誰でもいいし、どんな手段でもいいから、私の知らないことを教えてくれたり、それを見聞きした私がどう思うかを披露して、そこからまた、話し込んで「気がつけば遠くまで来たもんだ」と思えるような会話に飢えていた。完全に対等な会話。彼が今まで満たしてくれていた穴を埋めようと、夜の街を歩いてた。それは、なかなか埋まらなかった。

 夜学バーのことは、卒論を渋谷系で書こうと腹を括り、執筆にあたって小沢健二のことを調べている時に見つけた。「小沢健二の歌詞精読会」なるものをやっているようだった。少し警戒した。なぜなら、当時の私は某ファンアカウントがRTする様々なツイートに本当に辟易としていたからだ。小沢さんを好きな人たちは「勘がよく、かしこく、好奇心が強い人」(箱版『我ら、時』歌詞カードより)が多いはずなのに、なぜ「小沢くん><」みたいになるの?なぜ、神格化したり、アイドル化したりして一定の距離を保つの?と思っていた。ほかに小沢健二のことを同じ熱量で考えている人もいなかったし、寂しかった。だから、精読会をやっている「番頭 j」と名乗る人物は、頭のおかしな人間か、めちゃくちゃ愉快で賢い人間かのどっちかだな、と思った。

 よく覚えているツイートがある。

その1,「オザケン」と呼ばないことに「ほー」と思った。
その2,箱版 「我ら、時」の歌詞カードを引用する(やはり)頭のおかしい人間だと思った。
その3,この人のいう「わかる」は、単純な学問としての知識ではなく、私が求める「気がつけば遠くまで来たもんだ」と似ているものを感じた。
その4,つまり、小沢健二はきっかけに過ぎないのだなと認識し、勝手に同意した。

 ホームページを読んだ。カレンダーを見ると、火曜日には「back to back」、水曜日は「水曜日の惑星」、金曜日には「金字塔」と記された。「この人は中村一義宮村優子小沢健二が同居してんの??」と思った。私は「小沢健二中村一義が同居する、(私と同じくらい)頭のおかしい愉快で賢い人間かもしれない」と思った。

 ホームページには「人」という項目もあった。働いている人が綴られているようだった。文体から推察するにおそらく私と年齢の近い人間が、好きなものを項目ごとに羅列していた。その中にも「歌手:小沢健二」と書かれていた。わたしはこのホームページとツイッターを3ヶ月くらい監視した。なぜすぐ行かなかったのか。実家暮らしで遠かったんだよね。そして、タイミングを見つけて意を決して湯島に赴いたのは2017年7月9日。私は、OliveのTシャツに、ベレー帽を被り、太宰治のトートバッグをぶら下げ、下駄を履いて入店した。私なりの「こんにちは」のつもりだった。今考えれば、私の方がよっぽど頭のおかしいヤバいやつである。最初に夜学バーに入った時のことをよく覚えてる。店内には、“番頭 j”(もちろん、彼がいる日を狙って行った)と思われる男性。カウンターには同い年くらいの女性(彼女は多分「好きなもの 歌手:小沢健二」の人だと思った)の2人っきりだった。かけられた第一声も覚えてる「うわ!すごいTシャツだ!」。後日知ったけど、このお店は入店すれば、基本的に「こんにちは」「こんばんは」というとってもニュートラルな挨拶から始まる。たとえそれが始めましてでも、知人でも、どんなに古くからの友人でも変わることはない。だから、私がかけられた「うわ!すごいTシャツだ!」というのはとても珍しいものだったと追々知った。

 

 満足してる。そして終電も逃してる。そして朝になり、また夜のことを思い出してる。それから、半年して2回目の来店を果たした。一人暮らしを始め、家がお店から近くなったのだ。二度目は、ミッションボトルでプレイリストを書いてもらったショットをグイッと一気飲みして「おぉ、いい飲みっぷりですね」みたいなことを番頭 jに言われたのを覚えている。その日は混んでいて、一度目に来た時よりも知的好奇心はやや満たされなかったが、この店がいうところの流動性を感じるいい機会にもなった。お客が変われば、どれくらい遠くに行くのかも決まる。三度目の来店にそんなに時間はかからなかった。たしか、四度目の来店時の帰り際「あすかさん、もしよかったら、ここに立ってみませんか?」と声をかけられた。とても嬉しかった。程なくして私は社会人になり、当時勤務していた会社と家の中間に上野が存在したこともあり、本当によく足を運んだ。2018年4月以降は特に行った。入社式の日に、セクハラ発言をされて心が死に、上司の前でかなり大きい声で「やめたい!」と言い、くびにしてくれ……と願ったその日の夜。日比谷線 仲御徒町で下車して十字路をわたり、ガールズバーのバニーガールたちをよそ目に目当ての雑居ビルを3階分登って、あの重い扉を開けた。その日のこともよく覚えてる。お店にはまだ、jしかおらず、私の顔を見て三度ほど静かに頷き、何も言わずに赤星を出してくれた。その年の4月30日、新卒の私は仕事をサボって大阪に小沢健二「春の空気に虹をかけ」を見に行った。「好きなもの 歌手:小沢健二」と書いていた彼女と、見に行った。彼女が大阪で私に言った一言を今でもたまに思い出す。「私たちは多分、感動屋さんなんだと思う」。そうやって、私の中で急速に夜学バーの存在はムクムクと大きくなった。

 その後、私は仕事を辞め、引っ越しをして上野からまたとおざかった。近くまで来た時に顔を出したり、ピンチヒッターでお店の中の人になったりした。

 今振り返れば、2017年から2019年にかけての2年間は夜学バーに助けを求めていた。ここでの「助け」とは、セーフティーゾーンではない。乱暴に言えば、私がより賢くいいやつになるために使わせてもらった。2020年からは、自分の腕が鈍っていないかを確認する場所になった。人は、あっというまにださくなる。どんな剣豪も、使わなければ剣の腕は鈍る。せっかく、夜学バーを見つけ、足を運び、強く賢くなった私が、このまま朽ちていくのはあまりにも世の中にとって損失だ。この言い回しは、私が自意識過剰だからではないと言うこともちゃんと書いておきたい。

 夜学バーのことを考える時、私はヨーゼフ・ボイスの「社会彫刻」という概念を思い出す。あらゆる人間は自らの創造性によって社会の幸福に寄与しうる。すなわち、誰でも未来に向けて社会を彫刻しうるし、しなければならない。 芸術こそ進化にとっての唯一の可能性、世界の可能性を変える唯一の可能性だ、とボイスは説く。夜学バーは、宇宙の中で良いことをする決意をしている。社会を彫刻するためには、宇宙の中で良いことをする決意がいる。その決意は、この世の中がどれだけ素晴らしいと思えているかは関係ない。世の中に絶望して終わるのは簡単だ。「あなたも辛いよね、頑張ろうね」という応援歌は人気があるかもしれないけど、社会彫刻家である以上は「この世の中は美しいよ」と言いたい。言えなければならない。夜学バーが説く「学び(夜学)」は、地頭や賢さ、知識、偏差値、その他諸々の学力のことを示しているのではなく、決意や意思を指すものだと私は考えている。その先に、出来上がることのない彫刻作品の完成や都市の変化は訪れるんじゃないだろうか。私は夜学バーで、その意識を強烈に抱いた。

 夜学バーは客観的に見てもめんどくさい部類に入るお店でしょう。その「めんどくさそう」の正体は、人が背負わせようとしているカリスマ性なのかな、と閉店の引用RTをながめていて思った。「変わっているお店だ」「賢い人しか来ないんだろう」「賢い人が営んでいるんだろう」というラベリングは、一定の距離を保ち、それ以上知ることを放棄したようにも感じる。話は少し脱線するけど、例えば90年代後半の原宿は大人の認知が及ばない特殊なカルチャーが醸成される場として注目された。大人や当時のメディアは、理解が及ばない原宿を「若者の街」と形容した。最近できたMIYASHITA PARKに対して、一部の人たちが抱いた嫌悪感の正体は、街が変わることへの単純な憂いではなく「長年『若者の街』と例え、見て見ぬふりを続けていたのに、高級ブランドなどが象徴する『大人』や『社会』が原宿に流れ込んできたこと」への拒否反応だったのでは、と思う。

 形容やラベリングの類のように、閉店に際して「ツイートして満足」と感じるものもちらほらあった。社会彫刻家はけして、カリスマ的な存在ではない。なぜなら、みんな社会彫刻家なんだから。みんなカリスマなのになとすら思う。社会彫刻のことを考えれば、夜学バーは「常連や一見が“いない”」のではなく、そもそもその概念上にない、と私は思っている。悲しいかな私は従業員でもあるので、この言葉にどれほどの説得力があるかはわからない。でも、何かの役割を背負わされそうな状況で、希望や理想を彫刻するのはとても危険で大変なことであることを、どうか一度考えてみて欲しいな、と(従業員でもお客でもなく)社会彫刻家の1人として思う。

 

 陽気さと冷静さを矛盾せず並立させられ、しかもその振り幅がどでかい。たぶん、小さなお店に向いています。やはり最初はお客でした。初めてお店に入ってきた時から、「この人は逃してはならない」と思ったものです。まだ若いですが、この10年間くらいをよほど有意義に使ったのでしょう、たくさんのものごとを知り、使いどころもわきまえています。小さなお店でお酒を飲むことも好きなようで、「あの店よかったです」「ここはぜひ行ってみてください」といったことを教えてくれます。「足を使う」こともちゃんと知っているのです。いろんなところでいろんなふうに酒を飲みながら、「よい店とはどういうものか」ということを常に考えている人。たぶんこの店で実践する中で、彼女の「店観」はより豊かになっていくでしょう。嬉しくてなりません。

 これは、jが書いてくれた、夜学バーのホームページに記されている私の紹介文。この紹介文で1箇所だけ違うところがある。私は「小さなお店でお酒を飲むことも好き」なのではなく、夜学バーのような店が他にないかと歩き回ってるだけなのだ。残念ながら、まだ出会えていない。そして、池之端すきやビル3Fに位置する「夜学バー brat」もなくなる。つまり、夜学バーのようなお店はもうこの世には、私が知りうる限りない。夜学バーbrat死すとも、夜学は死せず。