舌先から散弾銃

ただの日記です

2023年、チバユウスケ一色だった


上島竜兵が死んだ時、特別大ファンというわけでもなかったのに何故か家でオンオン泣いた。その時はわからなかったけど、私は上島竜兵が生きているだけで社会の懐の深さを勝手に感じていたんだと思う。バカがつくほど(おそらく)優しくて、優しいが故に少しポンコツでも生きていける世の中の余裕を私は彼に見出していて、だから彼の芸風を見ても辛くなることがなく、ケラケラと笑って見れたんだと思う。社会のシステムだけではこぼれ落ちてしまうかもしれない、とびきり優しい人は、生きているだけで社会そのものが本来持ちうる懐の深さや余裕を証明していた。その人が、おそらく世の中で最も辛い自死を選んだことに完全に打ちのめされたんだと思う。

くもってら
ドーナッツ 食べたくなったけど
あの穴は なんであいてんの?
かわいいけど

チバユウスケが書いた「誰かが」の歌い出しには、そういう世の中にまだあるかもしれない懐の深さや暇を感じる。ドーナッツを見て「なんでこの穴空いてんだ、かわいいな」と、思える世の中にある一瞬の暇や余裕を感じる。このワンフレーズを聴くだけで元気が出る、大好きだ。
「誰かが」でチバはその後、こう宣う。

誰も教えてくれない
でもわかっていることがある
誰かが泣いてたら
抱きしめよう それだけでいい
誰かが笑ってたら
肩を組もう それだけでいい

なんだよそれ。信じられないくらいシンプルな話に落ち着いて、子供っぽさすらある。でもその子供っぽさに私はこの1年間、本当に随分支えられた。エブリバディ・ニーズ・サンバディーって言ってくれたから、駄々をこねれたこともあった。


涙がこぼれそう」も大好き。私はこれをただの酔っ払いの曲だと思ってる。だってあまりにも見覚えのある光景が多すぎるから(笑)。夜中に泥酔して、ロータリーで寝っ転がってて、転んだ拍子に口とか切ってるんだよ。立ち上がりたくねー、てかここどこだよとか思ってると男女が横でキスとかしててマジで情けなくて泣けてくる。やっくーん、ここどこ〜迎えに来て〜とか電話したくもなる。んで、気づいたら朝になってて、おっしゃ!帰るか!って。
覚えがあまりにもありすぎる。
チバが死んで、多くの人がこれを追悼ソングに選んだ。でもこれは、チバが酔っ払いのことをかっこよく歌ってくれたもの。このミュージックビデオのくるくるパーマを当てたチバ、ジョニー・サンダースみたいでかなり好き。


そもそも、私はあまりうるさい曲が好きじゃない。Birthdayだってミッシェルだって、学生の時にちょろっと聞いたけど、はまらなかった。なのに、youtubeディグで、民生の「世界の終わり」をみつけて、心がブルブルと震えて、アベフトシのことを知り、解散ライブの映像を見て、知りもしないバンドの聴いたことのない曲でポロポロ涙が出た。


思えば、うるさい曲を好んで聴くようになったのは社会人になってからかもしれない。ハイスタとハヌマーンだけを信じてた学生時代。


息もできない」は、世界の終わりのライブ映像を狂ったように見続ける私に、10年来のマブが「明日香はこれも好きなはずだ」と教えてくれた。そして、完璧にBirthdayにハマった。ほんと、今年「息もできない」を狂ったように聞いた。Aメロの文字数に比べると、Bメロの文字数は極端に少なくて、その言葉少なさを保ったままサビに駆け抜けていく。


チバユウスケが作る歌、特にbirthday以降は、すべてがシンプルな話に帰着していく。そこが好きだ。大人になったことや忙しさを盾に、正当な理由ばかりが上手くなっていく中で、取りこぼしてしまいそうになる単純なことを思い出させてくれる。歩いて家に帰る夜道、お風呂に入っている時、大音量でイヤフォンから「アイラブユーは最強、愛し合う姿は綺麗」とチバが叫んでくれる。


チバがインタビューで大きい愛と小さい愛の違いを問われた時の回答が好き。
「愛だけで何もかもが作られていればいいなとは思うけど。それは無理なんだよ。無理なのは知ってるんだけど、それでも愛で行こうよ、と俺は思うけどね。(中略)いろんなところにポツポツと愛があるじゃない。それがあればすごくいいことになるっていう風に思っただけ。マジックの人がいて、そこにロウソクがあってさ、パチン(指を鳴らす音)ってやったら、火がついたのよ。小さな愛って、ちょっとそれに近いっていうか。なんか“おぉ〜”と思って。違うかな(笑)。」
チバの曲は小さな指パッチンで、私を何度でもハッとさせてくれる。

ライブ、見たかったな。
「チバー!」って叫んで嫌な顔されたかった。

夜学バーbrat追悼文

 2017年の6月。当時大学4年生だった私は「この話をしたい・聞いてもらいたい人が1人も思いつかない」という事実に気がついて落ち込んでいた。期待して入学した大学。さぞ面白い人がたくさんいるんだろうと思っていたけど、若干肩透かしをくらい、1年くらいでだいぶ大学には飽きた(その後時間をかけて良い大学だった、と思えている現在。みんなありがとう)。「どうしてこんなに世の中は生きづらいんだ」と怒ったり「私と同じくらい面白い人間はいないのか」と右往左往もした。2017年は私にとって相当ハードな年だった。当時の私は、遠距離恋愛をしていて、結婚か事実婚か別れるかの決断を迫られていた。就職も卒論も控えていた。みんなが徐々に大学に来なくなる中、片道2時間かけて学校に行き、取らなくてはならない単位をてきとーに受けつつ、ずっと知りたいと思っていた他学科の授業を受けたり、他大の授業に紛れ込んだり、真剣に卒論に取り組むために本や映画、音楽を聴いた(ほとんどジャンキーだった)り、私のことをおもれーと言ってくれる大人たちのところに飛び込んだりして、生活が少しでも豊かに、楽しくなるように必死をこいていた。

 ……ごめん、今まで書いたこと、ちょっと全部カッコつけすぎだわ。もっと正直に書かなくては。なんせこれは追悼文だから。あのね、当時の私にはもう一つ悩みがあったの。それはね、もうどーーーしても好きだった人が忘れられなかった。なぜ、忘れられなかったかというと連絡が取れなくなったから。私に無断で、私の記憶と化したのだ、許さん。

↑私のツイート

 随分といろんなことを教わったし、随分と賢くしてもらった。それがぱったりと連絡が途絶えてしまって私は困惑してた。そう。色々言い訳を言っているけど、私は彼のように、私の知的好奇心を刺激してくれるものを求めていた。誰でもいいし、どんな手段でもいいから、私の知らないことを教えてくれたり、それを見聞きした私がどう思うかを披露して、そこからまた、話し込んで「気がつけば遠くまで来たもんだ」と思えるような会話に飢えていた。完全に対等な会話。彼が今まで満たしてくれていた穴を埋めようと、夜の街を歩いてた。それは、なかなか埋まらなかった。

 夜学バーのことは、卒論を渋谷系で書こうと腹を括り、執筆にあたって小沢健二のことを調べている時に見つけた。「小沢健二の歌詞精読会」なるものをやっているようだった。少し警戒した。なぜなら、当時の私は某ファンアカウントがRTする様々なツイートに本当に辟易としていたからだ。小沢さんを好きな人たちは「勘がよく、かしこく、好奇心が強い人」(箱版『我ら、時』歌詞カードより)が多いはずなのに、なぜ「小沢くん><」みたいになるの?なぜ、神格化したり、アイドル化したりして一定の距離を保つの?と思っていた。ほかに小沢健二のことを同じ熱量で考えている人もいなかったし、寂しかった。だから、精読会をやっている「番頭 j」と名乗る人物は、頭のおかしな人間か、めちゃくちゃ愉快で賢い人間かのどっちかだな、と思った。

 よく覚えているツイートがある。

その1,「オザケン」と呼ばないことに「ほー」と思った。
その2,箱版 「我ら、時」の歌詞カードを引用する(やはり)頭のおかしい人間だと思った。
その3,この人のいう「わかる」は、単純な学問としての知識ではなく、私が求める「気がつけば遠くまで来たもんだ」と似ているものを感じた。
その4,つまり、小沢健二はきっかけに過ぎないのだなと認識し、勝手に同意した。

 ホームページを読んだ。カレンダーを見ると、火曜日には「back to back」、水曜日は「水曜日の惑星」、金曜日には「金字塔」と記された。「この人は中村一義宮村優子小沢健二が同居してんの??」と思った。私は「小沢健二中村一義が同居する、(私と同じくらい)頭のおかしい愉快で賢い人間かもしれない」と思った。

 ホームページには「人」という項目もあった。働いている人が綴られているようだった。文体から推察するにおそらく私と年齢の近い人間が、好きなものを項目ごとに羅列していた。その中にも「歌手:小沢健二」と書かれていた。わたしはこのホームページとツイッターを3ヶ月くらい監視した。なぜすぐ行かなかったのか。実家暮らしで遠かったんだよね。そして、タイミングを見つけて意を決して湯島に赴いたのは2017年7月9日。私は、OliveのTシャツに、ベレー帽を被り、太宰治のトートバッグをぶら下げ、下駄を履いて入店した。私なりの「こんにちは」のつもりだった。今考えれば、私の方がよっぽど頭のおかしいヤバいやつである。最初に夜学バーに入った時のことをよく覚えてる。店内には、“番頭 j”(もちろん、彼がいる日を狙って行った)と思われる男性。カウンターには同い年くらいの女性(彼女は多分「好きなもの 歌手:小沢健二」の人だと思った)の2人っきりだった。かけられた第一声も覚えてる「うわ!すごいTシャツだ!」。後日知ったけど、このお店は入店すれば、基本的に「こんにちは」「こんばんは」というとってもニュートラルな挨拶から始まる。たとえそれが始めましてでも、知人でも、どんなに古くからの友人でも変わることはない。だから、私がかけられた「うわ!すごいTシャツだ!」というのはとても珍しいものだったと追々知った。

 

 満足してる。そして終電も逃してる。そして朝になり、また夜のことを思い出してる。それから、半年して2回目の来店を果たした。一人暮らしを始め、家がお店から近くなったのだ。二度目は、ミッションボトルでプレイリストを書いてもらったショットをグイッと一気飲みして「おぉ、いい飲みっぷりですね」みたいなことを番頭 jに言われたのを覚えている。その日は混んでいて、一度目に来た時よりも知的好奇心はやや満たされなかったが、この店がいうところの流動性を感じるいい機会にもなった。お客が変われば、どれくらい遠くに行くのかも決まる。三度目の来店にそんなに時間はかからなかった。たしか、四度目の来店時の帰り際「あすかさん、もしよかったら、ここに立ってみませんか?」と声をかけられた。とても嬉しかった。程なくして私は社会人になり、当時勤務していた会社と家の中間に上野が存在したこともあり、本当によく足を運んだ。2018年4月以降は特に行った。入社式の日に、セクハラ発言をされて心が死に、上司の前でかなり大きい声で「やめたい!」と言い、くびにしてくれ……と願ったその日の夜。日比谷線 仲御徒町で下車して十字路をわたり、ガールズバーのバニーガールたちをよそ目に目当ての雑居ビルを3階分登って、あの重い扉を開けた。その日のこともよく覚えてる。お店にはまだ、jしかおらず、私の顔を見て三度ほど静かに頷き、何も言わずに赤星を出してくれた。その年の4月30日、新卒の私は仕事をサボって大阪に小沢健二「春の空気に虹をかけ」を見に行った。「好きなもの 歌手:小沢健二」と書いていた彼女と、見に行った。彼女が大阪で私に言った一言を今でもたまに思い出す。「私たちは多分、感動屋さんなんだと思う」。そうやって、私の中で急速に夜学バーの存在はムクムクと大きくなった。

 その後、私は仕事を辞め、引っ越しをして上野からまたとおざかった。近くまで来た時に顔を出したり、ピンチヒッターでお店の中の人になったりした。

 今振り返れば、2017年から2019年にかけての2年間は夜学バーに助けを求めていた。ここでの「助け」とは、セーフティーゾーンではない。乱暴に言えば、私がより賢くいいやつになるために使わせてもらった。2020年からは、自分の腕が鈍っていないかを確認する場所になった。人は、あっというまにださくなる。どんな剣豪も、使わなければ剣の腕は鈍る。せっかく、夜学バーを見つけ、足を運び、強く賢くなった私が、このまま朽ちていくのはあまりにも世の中にとって損失だ。この言い回しは、私が自意識過剰だからではないと言うこともちゃんと書いておきたい。

 夜学バーのことを考える時、私はヨーゼフ・ボイスの「社会彫刻」という概念を思い出す。あらゆる人間は自らの創造性によって社会の幸福に寄与しうる。すなわち、誰でも未来に向けて社会を彫刻しうるし、しなければならない。 芸術こそ進化にとっての唯一の可能性、世界の可能性を変える唯一の可能性だ、とボイスは説く。夜学バーは、宇宙の中で良いことをする決意をしている。社会を彫刻するためには、宇宙の中で良いことをする決意がいる。その決意は、この世の中がどれだけ素晴らしいと思えているかは関係ない。世の中に絶望して終わるのは簡単だ。「あなたも辛いよね、頑張ろうね」という応援歌は人気があるかもしれないけど、社会彫刻家である以上は「この世の中は美しいよ」と言いたい。言えなければならない。夜学バーが説く「学び(夜学)」は、地頭や賢さ、知識、偏差値、その他諸々の学力のことを示しているのではなく、決意や意思を指すものだと私は考えている。その先に、出来上がることのない彫刻作品の完成や都市の変化は訪れるんじゃないだろうか。私は夜学バーで、その意識を強烈に抱いた。

 夜学バーは客観的に見てもめんどくさい部類に入るお店でしょう。その「めんどくさそう」の正体は、人が背負わせようとしているカリスマ性なのかな、と閉店の引用RTをながめていて思った。「変わっているお店だ」「賢い人しか来ないんだろう」「賢い人が営んでいるんだろう」というラベリングは、一定の距離を保ち、それ以上知ることを放棄したようにも感じる。話は少し脱線するけど、例えば90年代後半の原宿は大人の認知が及ばない特殊なカルチャーが醸成される場として注目された。大人や当時のメディアは、理解が及ばない原宿を「若者の街」と形容した。最近できたMIYASHITA PARKに対して、一部の人たちが抱いた嫌悪感の正体は、街が変わることへの単純な憂いではなく「長年『若者の街』と例え、見て見ぬふりを続けていたのに、高級ブランドなどが象徴する『大人』や『社会』が原宿に流れ込んできたこと」への拒否反応だったのでは、と思う。

 形容やラベリングの類のように、閉店に際して「ツイートして満足」と感じるものもちらほらあった。社会彫刻家はけして、カリスマ的な存在ではない。なぜなら、みんな社会彫刻家なんだから。みんなカリスマなのになとすら思う。社会彫刻のことを考えれば、夜学バーは「常連や一見が“いない”」のではなく、そもそもその概念上にない、と私は思っている。悲しいかな私は従業員でもあるので、この言葉にどれほどの説得力があるかはわからない。でも、何かの役割を背負わされそうな状況で、希望や理想を彫刻するのはとても危険で大変なことであることを、どうか一度考えてみて欲しいな、と(従業員でもお客でもなく)社会彫刻家の1人として思う。

 

 陽気さと冷静さを矛盾せず並立させられ、しかもその振り幅がどでかい。たぶん、小さなお店に向いています。やはり最初はお客でした。初めてお店に入ってきた時から、「この人は逃してはならない」と思ったものです。まだ若いですが、この10年間くらいをよほど有意義に使ったのでしょう、たくさんのものごとを知り、使いどころもわきまえています。小さなお店でお酒を飲むことも好きなようで、「あの店よかったです」「ここはぜひ行ってみてください」といったことを教えてくれます。「足を使う」こともちゃんと知っているのです。いろんなところでいろんなふうに酒を飲みながら、「よい店とはどういうものか」ということを常に考えている人。たぶんこの店で実践する中で、彼女の「店観」はより豊かになっていくでしょう。嬉しくてなりません。

 これは、jが書いてくれた、夜学バーのホームページに記されている私の紹介文。この紹介文で1箇所だけ違うところがある。私は「小さなお店でお酒を飲むことも好き」なのではなく、夜学バーのような店が他にないかと歩き回ってるだけなのだ。残念ながら、まだ出会えていない。そして、池之端すきやビル3Fに位置する「夜学バー brat」もなくなる。つまり、夜学バーのようなお店はもうこの世には、私が知りうる限りない。夜学バーbrat死すとも、夜学は死せず。

ニューヨークに行く前に考え中、など

4月17日
気が立って全然眠れないので、頭の整理がてらメモを書くことにした。in機内。

・初めて1人で海外旅行したのは19歳の春だった。大学1年生の時給1200円のバイトで貯めた(ZARA)貯金を全部突っ込んで行った。春休みだった。

・行き先はニューヨークだった。なぜなら、当時の私はSATCにハマっていた。そして小沢健二がニューヨークを生活の拠点にしていた。ただそれだけ。

・そう、私は根がかなりダサい。自覚している。

・ちょうどその頃、POPEYEでニューヨーク特集が組まれていて、そこで小沢さんがエッセイ(縦列駐車のやつ)を寄稿していた。そのPOPEYEを片手にニューヨーク中を歩き回った。そんな自分が好きだった。

・初1人海外旅行で、片道の航空券だけ買って行った。「あ、ニューヨークに行こう」と思い立ってから3週間後には飛行機に乗っていた。

・当然wifiの存在など知らず、データローミングしまくって高額請求が来て帰国後、軽く親に怒られた。親に怒られた数少ない記憶の一つ。

・当時は、ただ漠然とした不安が私を襲っていて「まあ死んでもいいか」くらいのテンションだった。

・私は例に漏れず、太宰治町田康を読み漁る、いや〜〜〜なかんじの希死念慮を持つ19歳だった。立派な大学二年生病だった。

・そのわりに、旅行の計画を立てている最中どんどん生きる活力みたいなものがみなぎってきた。当時の日記には「死ぬことを考えていたら、溌剌としてきた」などと書かれている。

・破滅願望ではないのだなと自分で分かったのが、その後の私をかなり助けた。

・当時の私は、自分が未貫通(なんて下品な表現、でも処女だと多少語弊があるんだ)であることにかなりコンプレックスを抱いていて、好きな男は誰も振り向いてくれないわ、セックスも上手くいかないわ、彼氏ともうまくいかないわで、とにかく自分が自分であることにかなり自信を失っていて、このタイミングでメガネをやめてコンタクトに切り替えた。わかりやすく、モテようとした。

・結果、ニューヨークから帰ってきた私はとにかくモテた。

・ここでのモテとは、色情と友情いずれも当てはまる。そしてこのモテは、いまもうっすら継続中。

Google翻訳なども全然発達していない頃の海外で、RPGのように日にちが経てば経つほど英語が聞ける、喋ることに快感を覚えて、お金が尽きて帰国した頃には随分自信がついていたように思う。

・正直、あの1人旅行から何かがくりっと音を立てて変わった感覚はあって「あ、私ってかっこよくて、賢くて、かわいかったわ」みたいな自信がみなぎったのをよく覚えている。

・ホテル清掃で物を盗まれるのが怖くて(ださい)4日間くらい部屋掃除頼まなかった(汚い)ら無理やり入られて掃除されてた。何も盗まれてなどいなかった。

・初めて見たブロードウェイのマンマミーアがなぜか泣けてしかたなかった。

・だから8年ぶりに仕事でニューヨーク行きの飛行機に乗っている今の状況は、個人的にはなかなかエモい状態。

・しかも狭く前途多難なエコノミークラスではなく、意気揚々と乗り込んだプレミアムエコノミーで。

・使い慣れないキャリーケースではなく、動きやすく扱い慣れたバックパックは、この数年間で得た機動力と知恵の象徴。

・このエモい状況に、ビリー・ジョエルのコンサートがかぶっていて「やった〜〜!」と思っていたんだけど、フライト一週間前にまさかの延期連絡。返金も無しでかなり「えーーーー」って感じ。

ツイッターで検索したらアメリカ人も全員怒ってた。人はもっと怒っていい。飛行機から降りたら「やっぱりやります」ってなってないかなぁ。

・まあ、かなり残念だけど、またタイミングがあるっておもっていいのかな。

・その後、やはりこのコンサートは行われず、チケット会社に英語で怒りのクレームを送りまくって全額返金をもぎ取る。(5月17日追記)

4月26日

・帰国後、実家にお土産を渡しに帰ったところ、当然8年前のニューヨークの話になり、お母さんに「よく行ったよね。当時も思っていたけど」と言われた。お母さん。

・夏にインドにも行って、調子を取り戻したように思っていたんだけど、なんかどうも心にモヤがかかったままで、どこか自信がないというか「まあ、私、根はダサいもんな。田舎の高卒の子だし」とか未だかつてないネガに突入していたんだけど、帰国後絶好調。私やっぱすごいわ。ニューヨークとの相性が良すぎる。

5月9日

・敬愛している人物に懇切丁寧なメールを送ったところ、懇切丁寧なお返事をもらった。

・私は自分に自信があるようでなくて、自分の意思がありそうでないけど、自我と自己愛をもっている。

・だから、彼が送ってくれた「あなたは、他の人とは少し違うセンスを持っていると文面から推察した。そしてその例外さは、私をほっとさせてくれた」と言う内容の文面は強く私を励ます。

5月17日

・最強を目指して、キックボクシングを始めた。

・怒りパワーが高まってきた。正常に怒り、冷静に叩きのめす力を蓄えられている。健康そのもの。

・その過程でタイマンをはりつつ、試合終了後は握手をすることが今の私にはできるようになってきた。

・ここでの怒りパワーとは喧嘩ではなく、原動力のようなものを指す。私は世の中に自分の力を示したい。それは競争でも権力でもなく、自分の力を自分のためだけに誇示したい。

・誰にも何も言わせない圧倒的なパワーが欲しい。パワーと話がしたい。

・このパワーは成長でもない。体が大きくなったとか、身長が伸びただけでもそれは成長というんだから。その成長を評価すんのはあまりにも他人すぎるし、数字すぎる。私が求めているパワーは数値では測れない。

・人は責められ耐性がなく、耐性がないから「生意気」とか「怖い」とか言って人をいなしたりもする。

・私のいいところは反省できるところだと思う。態度が横柄だと言われれば、そういえばそういう所あるよな、って素直に思う。

・でも、「あの人がそうやって言ってたよ」とか他人を引き合いに出されると途端に聞く耳がなくなってしまう。私は、あなたのパワーと話がしたいのに。卑怯だ、僻むなよ。

・人の不十分さを突く毒のような言葉が、優しさの役目を担ったり、背負ったりするということはあり得ると思うんだよね。

・やっぱり相手を見ちゃダメなのかもしれない。そう悟り、私はパワーへの探究を始めた。パワーは一番わかりやすい。

・みんなそれぞれ違うパワーを持つ。仕事はパワーを得るための手段。

・ついでに言うと私のいいところは、人が勧めたものはまずは素直に観たり聴いたりして、そのまま気に入ったらどっぷりハマるところだと思う。このいいところのおかげでずいぶん有意義な10代20代を過ごせた。素直さは知識と学を生み出し、知識と学で身につけた賢さは生活を少しだけ豊かに、そして楽にしてくれる。

5月30日

ceroの新譜を聴いた。たくさんのことを考えた。

・わたしは今、この世界をどれくらい素晴らしいと思えているのかを明確な数字や言語を持って示せない。

・でも、「素晴らしい世界だ」って言える、歌える側の人間でいたい。

・世界に絶望して終わるのは簡単だ。

・街だけじゃなく、自分たち一人ひとりがそもそも混乱した存在。

・体の中にも大量の菌があり、独りぼっちでも一人になれないという矛盾を最初から抱えてる。

・その矛盾に飲み込まれないようにするためには、どうしたらいいのかを考えているところ。

・まずは自分が孤独になり、混乱や不安定さこそが自分たちを形成しているんだ、と認識することから始まる希望はあるのではないか。

・いかにして「みんな」や「私たち」という主語を解体していくかにかかっている。そのための人は体を揺らしたりして、たまに踊ったりするんだと思う。

・いい感じ。あったかくなってきて、梅の花を見上げる人を見つける余裕が出てきた。

・実家にデジカメを回収しに行きたいけど、タイミングが合わず帰れない。もう4年くらい取りきれてないモノクロで撮れる使い切りカメラをポケットに忍ばせて、記憶の保管としてシャッターを切る日々。

・家で飲むお酒の量を減らした。寝起きが良い。あたりまえ体操

・空前のthe birthdayブーム。単語を羅列する歌詞が、良い。正当な理由をつけて感性を殺しているかもしれない中で、取りこぼしてしまったかもしれない見覚えのある景色に自動変換される感じが好きだ。サンデー、新宿、網タイツ。スーパーマーケットの帰り。乳母車、ショートパンツ。酉の市、スマイルなブロンド。なぜか今日は殺人なんて起こらない気がする。だけど裏側には何かがある気がする。でも。

 2月末日。夫の誕生日も近かったので「どっか遠いとこ行く?」の一声でその日の夜の飛行機を予約し、関西へ行った。その日の宿も決めぬまま、京都のお好み焼きをつつき、お酒も回ってきたところで「お互いに、一番だったら後はなんでもいいよね」という話で盛り上がった。夫は「あすちゃんが週一で他の男と朝まで飲んでいても別に何も思わないし(かまかけられてる?)『まあ、アスちゃんが一番好きなのは俺だろうし』って感じ」と言う。私も私で「私もやっくんが『ネットカフェに泊まる』と行ってしばらく帰ってこなくても別に何も嫌じゃないし、もし仮に他に女がいたとしても『まあ私には勝てないだろうけどな』って思っちゃうな」みたいな話をした。世の中には、週2回飲みに行っただけで彼女に怒られる男がいると言うのに、私ときたらひどい時は週3終電、週1朝帰り。世の中には男とラインをしているだけで彼氏に携帯をぶち壊される彼女がいるのに、夫ときたら休み前夜の火曜日から水曜日の一泊二日で一人旅に行ったり、ネカフェで漫画を一気読みしたりしてる。大抵、女の友達は「疑おうと思ったらいくらでも疑えるじゃん」と言い、男の友達は「そんなに自由なんて最高だ」なんてことをいうので、女の疑いはあながち間違ってないのかもしれない。その”自由”ってなんやねん、みたいなね。事あすちゃん/やっくんについては宇宙一の自信を持っており、その自信は日々お互いがギフトしてあげてられてるのかな〜ってことにした。普通に文字に起こしてみたら、なんちゅう会話を夫婦でしてるんだって感じだ。

 マブにUネクストのファミリープランに入れてもらい、セックスアンドザシティの新章をみた。死んだ夫の遺言で「遺産の一部を前妻に」という記述で、主人公のキャリーはかなり取り乱すんだけど、それもやっぱり「かつては夫にとって一番だった女VS現在の夫にとって一番であるはず私」の戦いにおいて「本当に勝てるのか?」と不安に思ったからだと感じた。しかも夫は死んでいるわけだし、なんで今更前妻との関係を復活させようとしているの?と言う疑問を本人に聞くこともできない。とかいいながら、女の痕跡をみつけちゃったら、私も取り乱したりするのかな。でもやっぱり、心が盗られてなかったら、私はなんでもいいし、今のところその自信があるな。取り乱したら笑ってくれ。

 夫はその後「最近あすちゃん美顔器でずっと二重顎ゴリゴリしてるけど、もしよければバレンタインのお返し、美容医療する?」とか言いながら湘南美容外科脂肪溶解注射の見積もりを取り始めてマジでウケた。「あすちゃんがまた可愛くなっちゃったらまた悪い犬が寄ってくるよ><」とか言いながら妻に整形を勧める夫。親友に話したら「驚いてる」と言われて「そりゃそうだよな」と我に帰った。


 6月、12月のブチ上がりの反動で、しっかりめに低空飛行気味。2月はダウナー入りがちというのは自己暗示だと思って、そんなことないふりしてたんだけどやっぱりダメ。もう認める、冬は本当に元気が出ない、調子が良くないとビールが美味しくない。外で人に会った後、家で抜け殻のようになる。しゅるしゅる〜と力が抜けて、見たくもないバラエティやアニメを垂れ流しながら、5時くらいにようやく眠りにつく。お風呂も夜には入れなくて、仕事があるから泣く泣く朝、浴室で凍えながらシャワーを浴びる。月曜日は在宅勤務なので、大抵は金曜日の夜から火曜日の朝までお風呂に入れない。後もう少しだけあったかくなって。

 

2022年9月23日

 私にとってパートナーを見つけるという行為は、事実上、理想の相手を探すという行為よりも大衆の排除という傾向の方が強い。

 高校1年生の入学してすぐの頃、野球部の男たちにいじめられかけた(いじりキャラ認定されそうだった)。そこまではいいけど、通学中の私を携帯で写真を撮って笑うみたいな超絶しょうもない遊ばれ方をされていると知り、ムカついた私は「うちは携帯持ち込み禁止の学校なのに、どうして彼らは携帯を持ってたんでしょうね、不思議ですね。野球部だけ試合とか多いし夜遅くなるかもしれないからオッケーみたいなルールあるんですか?」みたいなことを、可愛がってもらっていた野球部の顧問の先生に馬鹿なふりしてチクッた。彼らはその直後の試合には出れなかったそうで、これ以上悪行をチクらないでくれ、と休み時間に謝罪めいたこともされたけど無視した。野球部からのくだらない遊びはピタリと止まった。野球部の男がタイプと豪語する吹奏楽部の女に「謝ってんだから聞き入れてあげなよ」みたいなことを言われたけど「あはは〜」みたいことを言いながら静かにその女とも距離を取り、心底軽蔑した。それと同時に「あいつはやばい奴」認定をされたようだった。いじれないタイプのやばい奴、weirdoに私はなった。噂は広まり、サッカー部やラグビー部の男たちも静かに私と距離をとっていたように思う(なぜかバスケ部連中は遊んでくれたありがとな)。私の高校3年間は大衆から距離をとり続ける3年間だった。いかに「私はあなたたちとは違いますので」という態度を取り続けるかばかり考えていた。古い音楽を聴き、流行りの映画は観ず、ランプツェルとアナ雪は一生見ないと心に誓っていた。変わり者は、変わり者として、変わり者らしく振る舞うのが傷つかないと判断した。当然ながら、友だちと呼べるような人は少なかったし、文化祭も1人か、先生と回っていた(冷やかしすらなかった)。そんなやばい私を「かっこいい」とか言って、私とあなたは関わることはありませんのでという態度と距離を取るスクールカースト上位者もいたけど、そんな中で真っ向から「あんたやばいな、おもろいな、友達になろうよ」と言ってくれる人は本当に少なかった。なので私にとって高校の頃の友人とは、何にも変え難い存在で、最後の最後で私をひとりぼっちにしないために静かに手を繋いでくれていた人たち。本当に感謝をしている。18歳の明日香があるから今の明日香があるんだよ、と肯定の後押しをしてくれるのは他でも無い彼らしかいない。もし私がひとりぼっちだったら「18歳の明日香があるから今の明日香があるんだよ」なんて言えなかった。孤独を楽しむのは、1人じゃないと知っている人に与えられた特権のようなものだと思う。

 文化祭を一緒に回った男(先生)からの「外野は置いといて早稲田か美大に行ったら?」という言葉を鵜呑みにして、早稲田文構を目指した高2の夏。そして土壇場で「いや正直バリューで早稲田に進学しようとしてるでしょ私。美大の方が多分水があうわ、このままだと浪人しそうだし」と判断した当時の私の決断は完全に正しく、大学で過ごした4年間と、その過程で私を可愛がってくれた一回りも二回りも上の大人たち、そして大学で知り合った友人たちは私を限界突破させてくれた。どんだけ私がweirdoでも「明日香はそれでいい」という眼差しを向けてくれるだけではなく、なんなら「まだまだ我慢してるっしょ、完全解放しちゃいな、俺らも解放するから安心しなよ」みたいな態度を取り続けてくれた。「私、やっぱりおもろい人間だったんじゃん」と自信を持たせてくれたし、彼らと友だちになれた自分自身のことを誇らしく思わせてくれた。だってみんな本当にイカれてるしおもしろいんだよ。

 結婚して今年の10月で丸3年(早いね)。節目だし、というわけでバージンロードも親への感謝もないささやかな結婚パーティーを開き、そういう「谷口明日香は最高」と言ってくれる人たちを10人ほど呼んだ。やっくんの高校の頃からの友人と大人になってからの友人、私の高校の頃からの友人と大人になってからの友人、その彼氏や彼女なんかもきてくれた。たまにトイレでお弁当食べてたし、付属で途中まで他大受験だったし、寂しくて悲しい思いもたくさんしたけど、時空を超えて私を一人ぼっちにはしなかった友人たちが入り乱れる姿を見て、なんだか全てが報われたような気持ちになって、泣きそうになった、泣いてたかもしれない。ちゃんと一人一人にありがとうって言いたい。ありがとう。もう3年ほど音信不通だった大学のマブがなんでもない顔して来てくれたのも本当に嬉しかった。来てくれた友人たち全員に渡した写ルンですの現像写真を眺めては、余韻に浸っている。

 今よりもうんと若かった私にとってパートナー(親友)を見つけるという行為は、事実上、理想の相手を探すという行為よりも大衆の排除という傾向の方が強く、語弊を恐れずにいうならば、私が選んだ/選ばせてしまった友人たちだと思う。あなたなら友だちになれる気がするんだけど、あなたなら友だちになりたいんだけど、みたいな嫌な部分が私にはあった。当時の私ができうるベストな行動はそれしかなかったというだけなんだけど、それは完全に正しかったとまた思わせてもらった。

 疫病の関係もあり人数を少なくせざるを得なかっただけで、呼ばれて無いから友だちじゃないとか、そういうつもりはまったくない。こうやって書いている最中も、声はかけれなかったけど、心の中で感謝をしている友人の顔がぽつぽつと思い浮かぶ。そう、あなたのことですよ。他でも無いこれを読んでくれているあなたは間違いなく、わたしをひとりぼっちにしなかった人です。たとえ、私の高校時代や大学生を知らなくてもね。




 



 

 

愛、空を横切る彗星

 こんちくしょうには限界があると知る26の夏。「ふざけるな」「こんなのおかしいだろ」という世の中への怒りが原動力だったりしていたんだけど、相手に対する思いやりというものを考えるようになった。「セイント・フランシス」という映画を見た。立場や環境が違っても、みんな大なり小なり人には言えないような秘密や不安を一つや二つは抱えているという当たり前のことをようやく自覚した。みんな私が思っているよりもずっとずっと人間なのだという事実をようやく理解した。そして残念ながらどんなに言葉を尽くしても不安や秘密は人それぞれだということがわからない人間がいることもようやく、ちゃんと理解した。これに関してはもう私は頑張らないことにした。もう時間をかけてでも伝えきろうなんて傲慢なふるまいはやめることにする。今までよく頑張った。本当に偉かった。今までの反抗精神や、絶対に許さないからなという情熱は絶対に必要だったものなんだけど、念だけでは通用しないことを悲しいほどに知った。もともと私、意外とこう見えて結構優しいんだけど、優しさの種類を増やさなければ、と思うようになった。

    優しさ。優しさっていうのは一体何なんだろう。優しさと愛についてを交互に考えている。愛とは、思いとどまることをまだ知らない同情だと思う。突き抜けた同情。愛とは、私自身も不安を覚えつつ内面化の宣言を拒絶すること、それを他者に行ってもらう所以を求めることだと思う。

   人との車間距離を縮めたり離したりすることで恐怖を和らげたり、世の中の方が間違っているのだと諦め、狂人と認識されることを良しとすることも、答えを急ぐことももうしなくて大丈夫。傷つく準備ができたともいうし、もう充分傷ついたとも言う。悲しいことではない。もう私は傷つかないし、傷ついたとしても私は勝手に傷を癒して古傷を慈しんだりすることができると思う。

    小沢健二のコンサート終わり、今までそんなにしっくりきていなかった「泣いちゃう」と「彗星」をずーーーっと聞いている。特に彗星をずっと聞いている。真っ暗で広い海を泳ぎ続ける遠泳者も、世の中の有り様を呪うのもやばいけど、彗星はもっとやばい。彗星は氷や塵などでできていて、太陽に近づく周期は数年から数百万年以上までの大きな幅がある。中には一度も太陽系に近づかないものもあるそうだ。そしてなにより、近づいたら流星とは異なり、尾を引いたまま天空に留まって見えるという。きらめいて消えてゆく流星ではなく、太陽系に近づく覚悟とそこに一定期間とどまることを決めた彗星。数百万年かけて太陽系に訪れた自らの証を、さらに数百万年先の太陽系に住む人たちが見えるように遺物として天空に残す。現在、太陽系から見える彗星の跡は今この瞬間残されたものではなく数百万年前の過去に刻まれたもの。

   優しさと愛を考える時、遺物として空を横切ることを決意した彗星のことを思う。優しさとは、数百万年の時を超えて遺物として残ることを覚悟すること。太陽から放射される熱によってその表面が蒸発し、場合によっては天体に当たって滅ぼしてしまったり、滅びたりしてしまうかもしれないけど、そんなことは一定期間留まる覚悟を決めた上では取るに足らないことなのかもしれない。愛とは、思いとどまることをまだ知らない同情。共感と同情の狭間にあるのが時間。愛とは距離によって弱まった同情だと思う。

当面の目標は彗星です。