舌先から散弾銃

ただの日記です

ダンシング・イン・ザ・ポエトリー(愛の戦士は抽象の中で踊る)

 私は愛の人間。朝会社に向かうべくまたがった自転車、感じる風、いつもすれ違う登校には遅すぎる少女、ギチギチに詰め込まれた自動販売機の横のゴミ箱、誰かの爪に詰まった絵具、好きな色を持ち運ぶ自分の爪、誰かのいつもと違う化粧、誰かに注がれるビールの薄い泡、手を繋ぐ親子、路上で眠る酔っ払い、吐瀉物を避ける人、友だちから借りたCD、電車の中で話している人たち、携帯を見つめてにやりとしている人、横目で隣の携帯を覗こうとする人、眉毛の垂れた犬、友達と食べる焼き肉、深夜のパフェ、公園のベンチで寝そべる冷たさ、酔っ払って霞んで見える夜空。世の中は素敵なものがたくさんあって愛しい、やさしい。私は愛し愛されることが得意だと錯覚する。森羅万象を愛するように誰かを上手に愛せる、はず。

 「僕があなたを好きと思う気持ちより、あなたは全然僕を好きじゃない。それが辛い」。忘れられない言葉。どういう意味だったんだろう。家族にするように、友達たちにするように「好き」「ありがとう」「ごめんね」をたくさん伝えて、手を繋いでハグをして目やにをとってキスをして、前髪をかき上げて。

 気持ちを伝えていたと思う。恋愛の愛。恋愛の愛は「あなた以外はいらないし、これから先もきっと。だからあなたの欠点も含めて抱きしめます」という気持ちをお互いに綱引きして、弛ませず千切れないよう一緒にその綱を張り詰めさせる。どちらかが思いっきり引っ張っていてもいい、片手で掴むだけでサボっていてもいい。その綱が緩まなければずっと続く。あるいは地面に着いてしまっても、その綱に触れてさえいればいい。手じゃなくてもいい、足でも胴体も頬でも、とにかく触れていればいい。そしてそんなものは恋愛の愛じゃなくても、愛としてあるはず。愛は、だからこそ愛なのに。「あなた」はたった一人であるわけがない。そうであってたまるか、という意地すらある。そうであってたまるか。

 私がこれまで愛について育んだ気持ちは「あなたはわたしを好きじゃなくても、あなたが好きです。ずっとそうかは分からないけど、今この瞬間とても」。未来の自分も他人も変わる。変わっていくから、独りよがりに想い続けることを正義とし、愛と呼ばせて欲しい。私は変わっていく自分のことを愛しているから、美しいと思った瞬間を誰にも見せずにひたすらに投影しつづける。いつの日か、「美しいと思った瞬間」を誰かにもみて欲しい、あるいは共にこの瞬間を迎えたい。

 私の日々にある愛。焼肉の焦げてない方を相手にあげること。自分の買い物が終わった後に店の外で待っている時間。そういうことに愛を感じてしまうけどこれは生活。

 私は本気で綱を引く。あなた、どうか手を離さないで。今は少ない人数で同じ綱を握っているけど「いつか出会う不特定多数のあなたたち」に会うために綱を張り詰めさせ、弛まず、千切らせずにいよう。まだ見ぬ、同じ綱を握る誰かたちを見つけるために生き続ける。だから大丈夫。綱を持ち続ける覚悟ができるまで、日々の生活を愛していこう。この愛は続く。「愛は孤独。孤独は愛。」これは、愛においては逃げられないのだ、と半ば諦念に近い感情で腹を括る。

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 2020年7月に書かれた上記。相変わらず抽象的で「よくわからない」と思われそう。でもとても真剣に書いてる。これは、グッナイ小形さんの「くらし」という曲を聴きながら書いた。

ちょっと好きだった女の子と すごく好きだった女の子が

手を繋いで町の灯りに溶けていった

言い出せなかった僕の気持ちが少し報われたようで

嬉しくなって歩いた 帰り道

  毎日毎日、これを渇望して生きている。たまに訪れる「嬉しくなって歩く帰り道」。誰かにとっての「ちょっと好きだった女の子」にも「すごく好きだった女の子」にもなりたい。(2020年10月追記)

 

2020年8月18日

 頭の中でシュミレーションしているのは、正面からまっすぐズンズン歩いたその勢いで、両腕で相手を思いっきり抱きしめている私。でも、実際の私は何でもないふりをして誰かの隣に並んで、あーとか、うーとか話していたりする。

 「触れる」は、言葉が役に立たない場面で発動する一種の祈りだと思う。「ありがとう」と伝えたいとき。「怒ってる?」と聞けないとき。自分の気持ちがわからなくなってしまった時も、触れてしまえば悩んでいたことが不思議なくらいはっきりとする。

 

2020年8月?日

「友だち、試験、セックス。事前に教えて欲しい。ポストイットに一言書いて渡してくれるだけでいい。わかればこちらもすぐに好きになったり、嫌いになったり、服を脱いだりできるのに。可愛いフリルの下着を制服の下で身に着ける女の子たちへ。どうかせめて滑稽だと笑って楽しんで。」 

 これは2013年の日記から発掘された。「男の子とふたりで遊ぶ」と言うと口を揃えて皆は言う「デートじゃん」。分からない。仲良くなりたいから時間を割くと言うだけなのに。仲良くなれそうな人を探して、愛さそうな人を愛するだけが生きることなのではないのか。なにも分からないから「ヤレる」とか「ちょろい」とか「男に好意的」とか思われてしまうのかもしれない。愛の戦士はここが本当に難しい。だから、髪をド派手に染め上げ、派手な服を着て、心の柔らかいところを守る。世間の中で、正々堂々と愛していたい。

 わたしは人間が好き。一方、その人を素早く捉えようとしがち。でもこれって失礼。髪がド派手だからってヤンキーなわけじゃない。派手な服を着てるからって強いわけでもない。心がけとして、全員が悪い人だと思わないようにする。機会は対等であるはずだし、綱を引く人たちはどこに隠れているかわからないから。

 なんとなくそれぞれがそれぞれに「愛せるもの」をつまみ食いして、なんとなく自分でいられることが出来れば、それでよかったんだ!全部まるごと肯定してもらうのって大変だし、「全員に好意的」って変換されてしまうのはちょっと怖いし。

 

2020年9月30日

 人魚姫は足を得て陸で生活することの代償としてその声を失った。何かを得るとき、知らず知らずのうちに何かを差し出している気がしてしまう。オジギソウの見極め方、擬態するヤモリを見つけること、椿の油がささくれに染みる時の痛さ、友だちとはじめてしたお泊まり会、人と被りたくないという病的な天邪鬼、絶対に許さないと決めた強い怒り。

 何かを差し出した結果、欲しいと思っていたものが手に入らなかった時もある。選択は博打だ。

 25歳になる。お金と体調と機嫌は自分で管理できるようになったよ。過去と未来へのわたしへのプレゼント。この虚しいような悲しいような孤独な気持ちは、わたしが救う。「自分の機嫌を自分で取ること」は「未来の私のためにゴールとご褒美を用意して、思い出や愛、感触あるものを記憶する、焼き付ける」ことを意味するようになってきた。大丈夫、まだ足も声も失ってない。これからも失わない。

 どこまででもひとりで行ける。ひとりだとしても色んな人に支えられどこかに至ることを知っているから私は強く、弱い。 ひとりでいるのが好きだし、これからもそうだと思う。何もかもを受け入れたら、わたしはどこに行くのだろう。きっとどこにでも行く、行ける。

 でも、家の中や外で、家族の、友人の、好きと思えた人たちの、道ゆく人の、優しさにを感じ取って生きている。受けた愛は、いま目の前にある人や仕事、今はまだ見ぬ好きな人、ものに注ぐ。いつか本当にひとりぼっちの足なし声なし怪物になる日まで。