舌先から散弾銃

ただの日記です

結局、自分ってことだよな

仕事を辞めた。辞めてそろそろ2ヶ月経つ。

バイトを始めたりもたけど、この一週間はサボったし、その前の週もなんだかんだ言い訳をつけて休みまくってる。休み、休みって大事だな。少しずついろんなものを取り戻してる。

 

 仕事を辞めるのはめちゃくちゃ怖い。仕事をしてれば、毎日だいたい決まった時間に起きる、どこかに行く、という名目ができる。辞めるとそれはしなくていいものになる。名目を失うことは怖い。ここでの「仕事」は「好きではない仕事」や「辛い仕事」を指します。「好きではない仕事」は大抵、仕事内容が辛いのではなく、仕事と私を取り巻く周りの人達との問題。

 仕事にしろ何にせよ「やってみなきゃわかんねえ」 という博打を打たねばならぬ瞬間ってのがあるな、と知ってはいたけど、今は「博打、打てるときに打つべき」と思ってる。ありとあらゆるメリット、デメリットを考えて博打を打つ。私でいうと「いま、お金なくなっても衣食住に困んないな」という心強さはあった。

 仕事を辞めるということは「知らない部屋を電気をつけずに歩く」みたいなことで、電気のスイッチを見つけるまでは手を伸ばして暗闇を壁伝いに歩くことになる。視覚が奪われてるので他の五感に頼るしかない。この2ヶ月、マジで数年ぶりに本を大量によみ、映画もめちゃくちゃみた、その感想をめちゃくちゃ書きなぐったりもした。(どれも視覚必要でした)

 

 友人に先日「社会人になる前と社会人になってからの変化が一番なかったのはあすかさんだな、と、周りがどんどん社会人の目になるのをみて思う」と言われた。もがいてよかった。今までのわたしの努力、無駄にならずにすんだ。世間一般に言われる社会人と数十年かけて磨いてきた「あたしが思う素敵な人間」の狭間で、たぶん多少無理があるくらい努力した。

 ただ、無理は毒で、毒は結果的に良くなろうとも、毒は毒。できれば毒なんか摂取しないほうがいいに決まってる。なんで毒を取らざるを得なかったんだろうか。おそらく仕事を)自分の生活とかけ離れた別のもの」として考えてたんじゃないかな。生活の中の仕事、ではなく「生活と仕事」になっていて、その往復作業に疲れてしまった。できれば「私が素敵だと思える私」のまま仕事していたかったけど、あな会社ではそれは難しそうだった。

 就活までの人生、結構しっかり吟味していろんなことを選んできた自覚があるんだけど、就活は本当に選ばなかった。受けた会社も2社くらいだし、なんとなく「広告系だな、やったことなくて、やってみたいこと」くらいで選んだ。就活に割く時間よりも、割きたいことがある、ってことを選んだ。それはそれで一種の正解だったけど、「人生という長いスパンの中で時間を割きたい方」を選んだだけであって「自分が今後どうありたいか」みたいな問いからは逃げてた。ミスは言い過ぎかもだけど、軽率ではあった。

 仕事辞めて、適当なバイトをやり始めて二週間くらいで「んー、、もっと良くなりたい」と思った。かっこいいことしかしたくないな、ダサいことはしたくないな、とも思った。バイト先の人はいい人ばかりだし、定時で帰れるし、毎週水曜日だって休みだし、時給も悪くない。けど、私ならもっとなんかできるだろ。これから先、長く生きてく上でもっと良くなるには今ここで何かしらの手を打っておきたい。ちょっと言いすぎたけど、自分の子供ができたときに、やっぱりかっこいいと思われたいし、「かっこいいでしょー!」とも思いたい。

 で、少し遠回りしたけど、ようやく「なりたいあたしになれる仕事」についてたくさん考えてみた。わたしは、もうずっと「好きなものを仕事にしたくない」と強く強く思ってたんだけど、そこをちょっともう一度考えた。

 さっきも少し書いたけど、大抵は仕事の内容ではなく、仕事を一緒にする人との問題が大きい。そこの問題が大きくなる要因は「こりゃあ、何言っても分かり合えない」というか。頭の中にある引き出しや辞書の違いというか。長年積み重ねられた「価値観の層」の問題でほんの数年ではどうにもこうにもならない。これが学校における先生と生徒の関係だったらまた手の打ちようがあるんだろうけど、仕事となると、正直仕事どころじゃない。

 例えば私は進学先を選ぶときに、文化祭に行ったり講義にこっそり潜入したりして「自分に合う・合わない」を吟味し、見極めてきた。それは就活でも行われるべきことだったんだよね。

 会社は選ぶ立場で、私は選ばれる立場と無意識に思っていた。でも私でだって、進学先を決めるのと同じように選ぶ立場で良い。「この人たちと仲良くなりたいな」という会社を選べば良い。そうなんだよね、わたし、仲良くなりたいんだわ。

 んで、ここまできて考えた。「合う合わない」がわかるためにはある程度のヒントや、足がかりが必要、と。そんな時「自分がずっと好きなもの」はかなり役立つ。

 余談。好きなものが同じ人と仲良くなりたいわけではない。好きなものが一致してる人より、嫌いなものが一致してる関係の方が長続きしているような気がしていて、それはやることより、やらないこと。いってることより、言わないことの方が圧倒的に多く、それはとても見えにくいからだと思う。で、嫌いなものは見えにくいからこそ、まずは好きなものがヒントになる。

 音楽も映画も好きだけど、わたしの生活に最も溶け込んでるのは「美」を中心とする考え方なんだと思う。

 ここからはまじで余談で私の脳内整理ワードです。

 最後には「でもそこには収まりきれない何かがある」とか。教育において正しい学びや理解は常にある目的を形成しているけど、美術にとってそれは目的ではなく、手段であって、学びや習熟が目的化してしまうの本末転倒だよな、とか。芸術は内在的な革命性をはらんでいるけど、社会革命のように、(ここでは便宜上使うけど)国家を正面切って否定するような、阻害や抑圧に基づくものではなく、その人の中での国家のプライオリティを著しく低下するみたいな革命でむやみに否定もせず、一定の利便性をもたらす限りはあってもいいけど、その存在に対する尊敬や優先の度合いは、あまり尊重されなくなる。その理由は、芸術の秘密が他の何も還元することができない「個」(互いに等しい権利によって束ねられた「個人」ではなく!)にあるからだな、とか。この世界の中で、どこにいても何かしら居心地が悪いというのは、芸術において本質的なことで、この違和感がなければ、人はものをつくることをしなくなるだろうな、とか。「自分が美しいと思うものが美術だ」という心の働き自体は美しくないし、少なくとも美は誰かと共有することができねばならないな、とか。だからといって、多数決で美しいと答えた人が多かったものが美術かと問われるとこれも怪しく(生み出された時代にけちょんけちょんに言われてた人は本当に多いし)、やっぱり美とか、いう相対的な価値観に基礎を捉えようとするのはちょっと危険な橋で、訳のわからないアートもダメだけど、意味がありすぎて混乱する美術もそぐわない、最初から身の丈にあった言葉がない、行き止まり、困った。なるほど、だから「アート」という言葉はこうちう面倒な問題を忘れてしまうには、ほどよく空虚な響きを持ってるんだな!(結局、自分ってことだよな、プシュー)とか、ジャンルというのは近代固有の概念で「石や木で築かれたもの」「文字で書かれたもの」「声で歌われたもの」「絵の具で書かれたもの」というだけで、互いを歴史的に切り離すことには何の意味も持たないよな、とか、、、、(終)

 

  美術や芸術を基に、もっと私がよくなるために、美術や芸術に寄り添ったことがしたいな〜、せっかくなら、結構しんどい思いして培った「広告脳」も自分のコントロール下でうまく使っていきたいな〜。と思いながら転職活動を始める。

 

追記

ビテチョー最終まで行ってダメだった!

素直でいたいので、理由も聞いたし、再応募もするね!って言った。向こうもとても丁寧に答えてくれた。そりゃ凹みもしたが、もう次どこ受けようかな、と探しているところ。少なくとも、生活の輪郭がくっきりとし、ものすごく地に足がついてる感覚がある、嬉しい。地に足がついてたら、歩けるから、見つけに行ける。

んー、私、本当に強くなったな。