舌先から散弾銃

ただの日記です

 

クリスチャンボルタンスキーという、私がもっとも好きな芸術家がいる。74歳にはとてもみえない、いかしたおじいちゃん。大量の古着の山を積み上げたり、アンネフランクの白黒写真を使ってみたり、心臓音に合わせて豆電球を点滅さてみたり……。ホワイトキューブには持ちようのない、廃校や教会、屋外で耳を傾けることを重要視している作品が多い。そんでもって作品のどれもが、めちゃくちゃ行きづらいとこにある。
 彼の考えるその土地の持つ歴史や、人の記憶はただの真実の連なりではなく、マトリョーシカのように、何重にもで覆われた層という感じがする。それが好きだ。現代芸術家としてはちょー大御所なのに、ようやく何年か前に東京で初個展を開いた。東京都庭園美術館は旧朝香宮邸とも呼ばれている。展示名は「アミニタス~亡霊たちのささやき~」。たぶん、ボルタンスキーのことだから、朝香宮邸のことは調べつくしている。それなのにインタビューでは、そのことについて、あんまり触れていない。

https://youtu.be/mbRB5TmWC5k

 インスタレーションの大きな特徴のひとつに、「観客が作品の中に入れるということ」と教わった。絵や彫刻だと、作品の前あるいはその周りにいることしかできない。空間を使い、作品体験できたら、当然、感情に訴えかけるものは大きく変わってくる。

 ボルタンスキーの言う、「何か事件があり何千人もの人が亡くなったと、私たちはニュースで知るけれど、本当はそのひとりひとりが誰かにとってのかけがえのない存在」ということは、考えれば当たり前。だけど、理解した気なってしまう。それは野蛮で、恐ろしいことだなと思う。

 社会では「死」はタブー視される風潮があって「死」を目の間にすると、素直でいられなくなってしまう人がとても多い気がしている。「人が死んだら悲しまなきゃいけない」や「人が死ぬことは悲しいこと」など、その「悲しい」の中身が全然見えてこないことが大半。わたしの友達が死んだのに、なんでお前が悲しがっとんのや、とか、私のおばあちゃんが死んだのに、なんでお前がそんな顔しとんのや、などなど。その人が死んで、あなたは「なぜ悲しいのか」を分解していくと「私がさみしいから」「私とあなたのこれからあったであろう輝かしい未来がなくなってしまったから」など、大抵はかなり「自分が不利益を被った」と思っているからだと思う。これが本当に素直な気持ちだと思うんだけどで「死」を目の前にするとそれは、不謹慎!とか言われそう。ちなみに、私は大好きな祖母が亡くなったと聞かされた時の感想は「新しい服を買ってもらえなくなってしまう!ってこんなことを最初に思ってしまうなんて!悲しい!」だった。

 「生」と「死」は切り離せない。物は壊れるし、人は死ぬ。「生」と「死」はたぶん表裏一体だから、「死」が明確なったら、「生」も明確になる気もする。「あ~しにたいな~」と考えたら、生き生きしてきた、生きることが鮮明になってきてしまった!矛盾!でも明日も立ち向かうぞー!という、不思議体験はみんな一度はしてるんじゃなかろうか。

 ボルタンスキーは「誰がその作品を作ったのか忘れ去られても、作品のメッセージは人々の中に残り続けるものを作りたい」とも言ってる。瀬戸内の小さな島とか、チリの辺境や、砂漠の真ん中にわざわざ作品を観に行くことはそうそう出来ない。でも、「そこにそれがある」ということだけは想っている、知っている。存在する(存在した)ことが伝えられることによって、たとえその場所に行くことが叶わなくても、その場所が「存在」するようになる。庭園美術館での「亡霊」にも共通するけど、肉体的、物質的にはそこに存在しなくても、何かが残る、存在している、それが重要なんだ、というところに一旦わたしの中では落ち着いた。神話のように大切なものとして、人びとの心に残り続ける。それはその作品を実際に観ることよりも、はるかに大きな力を持つ。……と、ボルタンスキーも言っている。

 でも、ボルタンスキーは「人が死んで何かが残るとは思っていない」と言い放っているし、私も特定の宗教や死後の世界といったものは全く信じていない。チグハグなように思われることが多いけど、その人が生きた証として、記憶やその人を想う人の存在があるのだと思う。誰かが誰かのことを大切に思った証を残す。その証は、私にとっての、やりとりした手紙の数々だし、誰かにとっての目に見えない絆のようなものがそれにあたるし、ボルタンスキーにとっての作品がそれにあたる。生きた証や、記憶、その人を想う存在は、絶対に共通性をもたない。もちようがない。

 「亡霊」も、例えば朝香宮邸に住んでいた人たちに逢える、ということではなく、もっと多様で曖昧な存在。亡くなった人たちの記憶や、その人への想いとか、そうした包括的で漠然とした「亡霊」の存在を感じ取る。そもそも生きてる人と死んでる人の違いってなんだろう。不思議だ。

 「亡霊」という曖昧な存在は、絶対的な他者とも言えそう。何か理解できないものが、理解はできないけれど存在している、という感覚。具体的に見えて、理解できるわけではないけど、確かにどこかに存在している。神話のように。

 

前の日まではしっかり覚えていた友達の命日をその日、お昼を食べてる最中に「はっ!」と思いだした。「前日まで、『明日はおさがりのジーンズはこうかな』とか思ってたのに!」
と、毎週水曜日の楽しみ、アジア屋台ぶっかけ三色弁当を食べながら、ペコの顔を思い出そうとした。ぜ~んぜん朧気にしか思い出せなかったので、おかしくなってしまって、チャーリーズエンジェルのサントラをその日ずっと聞いてた。その日は結局、朝まで飲んだ。次の日の仕事は、午前中、サボった。