舌先から散弾銃

ただの日記です

2018年4月13日

 

 人前で声をあげて泣いてしまった。

別に誰にも見られていないから、とか、大きなライブ会場だったから、とかではなく、

最近よく行く、決して大きくはないお店で声をあげて泣いてしまった。

私の感情にドバドバ水を注いだのは、全然知らない女性歌手で、名前も顔も楽曲もしらないすごくパーマのかかった女性が、ただ、赤いワンピースに身を包んで、全身全霊で歌っている姿を見ただけ。

でも、心がぶるぶる震えて、早々に心は感涙を流していた。

でも、もう聞かないかもなとも思う、というか聞く必要がないかもとも思ってしまった。とかいってたぶん全然聞くけど。にしたって時をうかがうと思う。

それぐらい強力な映像で、曲だった。

今のこの時、社会とか世の中とか世間とかにもみくちゃにされて、

私が私であったものをどんどん見失いそうになる、見失いたくないともがき苦しんでいる私には、あまりにもたくましくて、心強かった。

安心したんだと思う。

 

そういった心の感涙が、表の私に出てしまったのはそこにいた人たちも大きく要因していた。

「ああ、この人たちの前でなら泣いちゃって、もう、いいかな」って思えた。

お酒も飲んでいたし、夜遅かったし、いろんな言い訳もあることだし泣いちゃおーって。そしたら、家で一人でいてもこんなに泣かねーよ、ってくらい声を出して泣いてしまった。

恥ずかしいな、恥ずかしいな、とフっとみたら、その友達ふたりも泣いていて、うれしくなった。人が泣いてるのをみて、うれしくなったというのは適切じゃないかもしれないけど、とにかく私は嬉しかった。

いままで、孤独に、自分を信じ続けていてよかった、そういう肯定とか、

やさしさに包まれたならきっととか、そういうことを思って、うれしくて、嬉しくてたまらなくなったから、声をあげて泣きながら笑ったら、ふたりとも、フハハと目を見合わせて笑った。

 

いい夜の定義を今後この夜とします。

 

 こうやって自分の感情とか、脳みそに頼って記憶して、焼き付けていけばアーカイブの意味での日付入りの日記とかいらないんだなと最近つくづく思う。(とかいいつつこうして書いちゃってるけど)

 高校生くらいにはまった社会学者の著作で「本当に大事だと思うことはメモするな」と書いてあったことを最近思い出す。今思い返せば、お世話になった高校の先生も同じようなこといってた「記録として何かに書くと、脳は仕事しなくなるぞ!」

 当時は全然意味なんてわからなかったけど、この日の朝がた、電車の中でぼんやりしなが、そんなことを思い出して、はっきりと理解した。

 

 自分の脳や心や美徳とかを全面的に信用して、すべての出来事をそいつらに託す。

そうすると、記憶の純度とか、考えの精度とかはすごくあがる。言葉を温める、思考をあたためる。

 で、あるとき「これは2015年物なんですが」と熟成ワインのようにそれを出す。

それは結果、私を私たらしめる個人純度みたいなのがたかまって。

それに反応してくれる人たちは、間違いなくいい夜をすごせる、一緒に。

今日みたいに。

 

小沢健二さん、お誕生日おめでとう。

あんたのおかげでまた友達ができた。