舌先から散弾銃

ただの日記です

一人暮らしにまつわるあれこれ


一人暮らし準備の真っ只中である。

長かった、ここまで来るのには、本当に長かった。念願、こんなにこの単語がしっくり来ることはもう今後の人生でないかもしれない。

鋭意、捨てては浸り、浸っては捨てている。引っ越し準備や、片付けというのはノスタルジーだとか、思い出だとか、おセンチに耐えることが主な仕事になってしまって、懐かしい本は読んでしまうし、写真だって撮りたくなるし、作業は全く進まない。いまもこうしてポチポチと書いているわけだし。

少しずつ何もなくなってゆく自分の部屋で、私だけが知る部屋の傷、部屋の匂い、家具の微妙な位置のズレなどで記憶を辿る。

大切なひとが死んでしまった夜のこと、がっこーに行かずゲームばかりやっていた日々のこと、両親とそりが合わず声を出さずに泣いた日のこと、好きな人のことを思っていた日々のこと、受験勉強をしていた夜のこと、おそらく今後会うことはない友達を招いた日のこと、おそらく今後も会うであろう友人を招いた日のこと、何人もの友人たちが泊まりに来たこと、2時間半かけて大学に通ったこと、このベッドで文を書いたり読んだりしたこと。この部屋で何が起こったかを、ちゃんと私の言葉で書き記しておくべきかもしれない、という結論に至りこうしてポチポチ文字を打つこと。

記憶は無限じゃない。

 と、そうこう書いて下書きに保存しているうちに日は経ち大雪が関東に降り、卒論を提出し、ダンボールの山が増え、荷物はあっという間に部屋からなくなり、引っ越しが終わった。2018年2月11日。ようやく我が城っぽくなってきた新居でこれを書いています。

と、そうこう書いて、本当のことを知りたいだけなのに2月はもう終わり。

 

22年間過ごしたあの部屋を離れる、どんな思いになるのだろう、と思っていたけれど、思ったほどの感慨はなかった。それとも後でじわじわとくるのかな。

もっと話したいことは私の家族に対してもちろんあって、それはとってもさみしい。そのうち、と思ってもうどれだけたったかしら。どうせまたすぐに会えるし、と言い訳をしている。

 

こんなことを書いてしまうのは、ある尊敬する大人が、先日、なんの前置きもなく突然「あすかちゃん、"頑張る"を毛嫌いするのは違って、"頑張る"にも種類がたくさんあって、"頑張る"やり方や多種多様な種類を学ぶのには一生かかるんだよ、早いか遅いかではないんだよ、わかった?」と真っ直ぐ目を見て言われたからで、ここんとこ、生きてみなければわからないことをわかるために生きるのだろうか、と熱心に考えているから。いつか突然やってくる答え合わせのために生きる、生きていようというのが今んとこの結論です。

人が成し遂げること、人が置かれる様々な状況。その意味は、それらが起こっている「今そのとき時点」においては明確でないことがとても多い。その時は他人を呪ったり、神様を恨んだり、自分を軽蔑したり、もう生きていたくないなーと思ったりする。

といっても、私は「考えること」を大事にしているくせに小さい頃から今の今まで「何故生きるのか」といった疑問にはまるで興味がなかった。「そんな誰でも持ちうる安い悩みのようなものを、さも大事に考えるのはずかしーし、しらんし、じゅうだいでもねーし、だせー」とか思っていた。それでも、そんな疑問に直面するような道を人並みに生きてきたんだな、と認めるようになったのだと思う。

去年は「自分の美徳や浅はかさを素直に認める」ようになれたから、今年はその答え合わせのような年になったら、いいな。するぞ。