舌先から散弾銃

ただの日記です

3月11日

理想を語るのはタダだから私は言うが、
私は「黙して語らず」な人間になりたいと思っている。
この文頭を書いた時点で私の理想は儚く散りにゐくわけだけれども、私が言いたいのは、乃ちこうゐう訳であるよ。
どんなに思考を凝らしても、どんなに思案して、推敲した文章でも、
紙を経て、キーボードを経て、口を経て、それらの思考がなんらかの物質になってしまえば、どんなに心の底からの
「愛しているよ」も「あなたが大切なんだ」も「ありがとう」も「がんばれ」も
全部、ぜんぶ紋切型のクソみテェな「しあわせ」だとか、「愛」だとかに成り下がる。
されど人間は表現しないと、相手がナニソレを考えているだとか、僕はアレコレを考えているだとかがまったく伝わらないものだと、《勘違い》しているらしい。
いや、もしかしたら、やはり、表現がない世界に人間は呼吸をすることは許されないのかもしれない。
そんな表現至上主義の中で、「黙して語らず」は非常に難しい。思考思案反芻爆破凝固を繰り返しているのに、表現しないがために「あいつは何を考えているのか」とかなんとか言われる羽目になるのだ。
終いには、テメェは何も知らないくせに「大人だね」だとか「あまり考えすぎるなよ」みたいな、いかにも表現至上主義的な(ある意味大衆的な)発言を私に発射するわけである。

生きるためには、人と話さなければならぬ。

少なくとも、私はそう信じて生きてきた。でも、話すということは表現するということで、表現するということはチープにするということだ。


私は、義理とか、人情には熱い人間だ。
好きになったらとことん好きだ。
とことん愛情を伝えたい。
愛情を伝えたい人に、愛情をしっかり濃厚にに伝えたい。チープには、したくない。
でも伝えるには、表現が必要で、表現は形になってゆく過程で必ずチープになる。
どうしたら、この愛情は、そのままに、ストレートに伝わるのだろう。
本当に愛しているんだよ、私は。


芥川龍之介は「人の葬式で泣く奴は偽善だ」と言い放ったらしい。
そして、彼は慕っていた夏目漱石の葬式で誰よりも声を上げて泣いたらしい。

 
私は偽善者になんかあなりたくないから、黙祷なんぞしないさ。