舌先から散弾銃

ただの日記です

2014/04/02

昨日、御殿場に行きました。
ちんたら国道で行ったのだけれど、
桜色がどんどんなくなってくではありませんか。
桜前線を逆に追って、時間の流れに逆らったような、止まったような。
どちらにせよ、なんだかお得な気分になりました。
御殿場に着いてすぐ、一本の桜。
一本だけ満開でした。
日当たりなのか、樹齢なのか。
どちらにせよ、なんだかんだ春は好きです。
 
今日、六会日大前に行きました。
ちんたら鈍行で行ったのだけれど、
六会に近づけば近づくほど、胸の奥がギュッと痛く___そう、痛くなりました。
体が、「まだ戻るなー いま戻るなー」と訴えかけているのか、なんなのか。
どちらにせよ、校舎に入る気はなかったから訴え損なのだけれど。
駅を降りて、長い階段を下り、
レンガ道に足音を転がし、ニヤニヤし、
スイーツ女子に逆らい、コンビニを抜け、坂を登り、桜並木。
今年は見れないと思っていたから、歩くのは勿体無くて、その場で立ち尽くす。
五分くらい立ち尽くして、写真を三枚撮りました。
 
そしていま、私はお風呂で、友達について考えている。
 
ある人は「高校の友達は一生ものだ」
という。
ある人は「大学の友達は一生ものだ」
という。
どちらが本当なのか。
それとも、この二択のどちらもが、定義ではなく主観としてのただの"意見"なら。
ただの、"経験談"なら。そもそも「いつ出会ったか」や「どう出会ったか」はそんなに関関係性に影響を与えるものなのだろうか。
友達の定義とは?
 
辞書を引いてみた。
以下引用
 
"互いに心を許し合って、対等に交わっている人。一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人。友人。朋友(ほうゆう)。友。「―になる」「遊び―」「飲み―」"
 
では、こういうことになる。
「友達になろ!」を幼稚園児でもわかるように訳すと、
「これから、私はあなたに心を許すのであなたも心を許すことが最低条件であり、その後酒を飲み、ダンス、ボーリングもしちゃったりしちゃってやっぱりそのあとダンスしましょう。いえーい。」
 
今の時代、そして私たちの年齢で、
「友達になろ!」は小学校一年生の記憶であるはずなのに、やたら、友達友達友達友達友達というのは、なぜなのか。
成長か、退化か、不安か、自信か。
いつか一人になると知りながら、大切な人を作りたがるのは、なぜなのか。
私たちが、相手を(正確な定義もない)"友達"と認知するきっかけとは?
補色残像みたいに気とか念みたいな、非科学的なもの?年月?みため?
 
その昔、アリストテレス
「友情とは、二つの体に宿った、一つの魂である」といった、という授業を受けた。
そう考えると、友達は、自分と、あともう一人だけしかいないのか。
はたまた、"もう一人"がたくさんいるのか。
=その分だけ"魂"お呼ばれているものも存在するということなのか。
魂を分け合ったものだから、語らずとも導き合い、認知するということなのか。
そんな、商品的な、大量生産的なものなのだろうか?
魂の大量生産。
 
自分が友達と思ったら友達?
裏で相手がほくそ笑んでないなという確証は?
友達は文字通り"絡まり"あった複雑なものなのか。
それとも、もっと単純なのか。
 

定義を反論するのは簡単なのだよね。

 

反論を恐れずに、思考の末にたどり着いた、私の思う、友達とは、

「"友達"だなんて言葉で形容したくない人」

言葉にすればわからないことだって、きっと、ある。

 

4月11日までの定期券は、思わぬ形で、思わぬほど、元を取ったようです。

 
 
 
遠くまで旅するトモダチたちへ。
 
小沢健二/ぼくらが旅に出る理由
 
心変わりは何かのせい
あまり乗り気じゃなかったのに
東京タワーから続いてく道
君は完全にはしゃいでるのさ
ひと気のない秋の渚
僕らだけに開ける空
元気でいて と ギュッと抱きしめて
空港へ先を急ぐのさ
 
遠くまで旅する恋人に
溢れる幸せを祈るよ
僕らの住むこの世界では太陽がいつも昇り
喜びと悲しみが時に訪ねる
遠くから届く宇宙の光
町中で続いてく暮らし
僕らの住むこの世界では
旅に出る理由があり
誰も皆 手を振ってはしばし 別れる
 
そして君は摩天楼で
僕に宛てはがきを書いた
こんなに遠く離れていると
愛はまた深まってくのと
それで僕は腕を振って
きみに宛て返事をかいた
とても素敵な 長い手紙さ
なにを書いたかは内緒なのさ
 
そして毎日は続いてく
丘を越え僕たちは歩く
美しい星に訪れた夕暮れ時の瞬間
切なくて切なくて胸が痛むほど
遠くまで旅する人たちに
溢れる幸せを祈るよ
僕らの住むこの世界では旅に出る理由があり
誰も皆手を振ってはしばし別れる