舌先から散弾銃

ただの日記です

愛、空を横切る彗星

 こんちくしょうには限界があると知る26の夏。「ふざけるな」「こんなのおかしいだろ」という世の中への怒りが原動力だったりしていたんだけど、相手に対する思いやりというものを考えるようになった。「セイント・フランシス」という映画を見た。立場や環境が違っても、みんな大なり小なり人には言えないような秘密や不安を一つや二つは抱えているという当たり前のことをようやく自覚した。みんな私が思っているよりもずっとずっと人間なのだという事実をようやく理解した。そして残念ながらどんなに言葉を尽くしても不安や秘密は人それぞれだということがわからない人間がいることもようやく、ちゃんと理解した。これに関してはもう私は頑張らないことにした。もう時間をかけてでも伝えきろうなんて傲慢なふるまいはやめることにする。今までよく頑張った。本当に偉かった。今までの反抗精神や、絶対に許さないからなという情熱は絶対に必要だったものなんだけど、念だけでは通用しないことを悲しいほどに知った。もともと私、意外とこう見えて結構優しいんだけど、優しさの種類を増やさなければ、と思うようになった。

    優しさ。優しさっていうのは一体何なんだろう。優しさと愛についてを交互に考えている。愛とは、思いとどまることをまだ知らない同情だと思う。突き抜けた同情。愛とは、私自身も不安を覚えつつ内面化の宣言を拒絶すること、それを他者に行ってもらう所以を求めることだと思う。

   人との車間距離を縮めたり離したりすることで恐怖を和らげたり、世の中の方が間違っているのだと諦め、狂人と認識されることを良しとすることも、答えを急ぐことももうしなくて大丈夫。傷つく準備ができたともいうし、もう充分傷ついたとも言う。悲しいことではない。もう私は傷つかないし、傷ついたとしても私は勝手に傷を癒して古傷を慈しんだりすることができると思う。

    小沢健二のコンサート終わり、今までそんなにしっくりきていなかった「泣いちゃう」と「彗星」をずーーーっと聞いている。特に彗星をずっと聞いている。真っ暗で広い海を泳ぎ続ける遠泳者も、世の中の有り様を呪うのもやばいけど、彗星はもっとやばい。彗星は氷や塵などでできていて、太陽に近づく周期は数年から数百万年以上までの大きな幅がある。中には一度も太陽系に近づかないものもあるそうだ。そしてなにより、近づいたら流星とは異なり、尾を引いたまま天空に留まって見えるという。きらめいて消えてゆく流星ではなく、太陽系に近づく覚悟とそこに一定期間とどまることを決めた彗星。数百万年かけて太陽系に訪れた自らの証を、さらに数百万年先の太陽系に住む人たちが見えるように遺物として天空に残す。現在、太陽系から見える彗星の跡は今この瞬間残されたものではなく数百万年前の過去に刻まれたもの。

   優しさと愛を考える時、遺物として空を横切ることを決意した彗星のことを思う。優しさとは、数百万年の時を超えて遺物として残ることを覚悟すること。太陽から放射される熱によってその表面が蒸発し、場合によっては天体に当たって滅ぼしてしまったり、滅びたりしてしまうかもしれないけど、そんなことは一定期間留まる覚悟を決めた上では取るに足らないことなのかもしれない。愛とは、思いとどまることをまだ知らない同情。共感と同情の狭間にあるのが時間。愛とは距離によって弱まった同情だと思う。

当面の目標は彗星です。