舌先から散弾銃

ただの日記です

どうせでも

 「自分の陰陽の気持ちの差を大きくしすぎない」「ブチ上がりすぎない」というのを心がけるようになった。今は縁を切られた躁鬱の友人が、医者に「躁鬱とは躁状態で上がりすぎると後は落ちるだけで、鬱は躁に比例するもの」と言われたという話を最近思い出す。この夏(特に6月)は、私は少々ブチ上がりすぎていて、今月(12月)もややブチ上がり気味でこの先の自分を案じてしまう。

 案じながらも、あたしはきっと大丈夫だなと思えるようにもなってきた。なぜなら「私はたぶん人生一週目」だから。「人間として生きる人生が1回目」だと思えるから。ゲームでいうところのチュートリアルモードで、人生というゲームの中で必要なコマンドや操作を一生懸命覚えているところ。そう思ったら、納得いくことが増えたし、少し生きるのが楽になった。私は賢いけどその賢さは「この道は死亡ルート」というのを一度死ぬことで知っているから。スーパーマリオならぬ、スーパーアスカ。この人生、残機がたくさんあってよかったよ。
 みたいな話を中学生の私を知る唯一の友人(女)に話したところ「あんたは試作段階のゲーム。テストモードです。デモです。みなさんのためにたくさん色々やらかしてください」と言われてウケた。

 21歳の男の子と仲良くなった。私は、当時21歳だった私が「偉そうな奴」と思っていたような26歳の人間になっていないだろうか。「この人とは友達になれる」と思えてもらえるような隙や余白を保てているだろうか。性別をむき出しにしてダサい態度と会話を続けていないだろうか、と常に頭の片隅で心配をしている。でも21歳の私は絶対に言う「こっちは友達になりたいって心から思ってんのに『友達になれるだろうか』とか『年下と年上の関係性は難しく…微々たるモノでマウントになりかねないので……』とか考えてるその思考自体がウザいしだせえしその態度が透けてみえると興醒めすんだよ」と。ありがとう、21歳の俺。おめえが七転八倒(まじで)をたくさんやらかしてくれた(マジで)おかげで26歳の俺はかなり助かってる。真っ直ぐな愛には心すっかり捧げていたいし、あい変わらず季節に敏感にいたい。みたいなことを考えていた翌日、この男の子に「今日この後、暇すか?遊び行きませんか」という最高の誘い文句をいただき、カッコつけながらも良い格好しい態度をとらないでいたら「そういうところが、いいっすよね、明日香さん(原文ママ)」と言われてついに私は21歳のおれとハグをした。「ここでの『好き』の意味がわかる大人でよかったよお」と18歳の明日香は泣いてた。私と同じ気持ちでまた遊びたいと思ってくれていたら、と願いながら生活を送る。

 明日香たちが今の私を助けてくれているように、26歳の私が30歳の私を助けてあげられますように。七転八倒を恐れずに、ブチ上がりも、ブチ落ちもしよう。どうせチュートリアルモードだし、死ななきゃいいんだよ、死ななきゃ。